革命期の公教育思想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 00:33 UTC 版)
「フランスの教育」の記事における「革命期の公教育思想」の解説
「:en:History of education in France」、「教育史」、および「啓蒙思想」も参照 フランスでは、公教育が国の責務であるという原則がある。そこにいたるためにフランス革命期の公教育論が発展した。当時、教育は啓蒙の精神を広めるものとしての重要性を持っていた。求められたのは、国民に与えられた主権を行使できる状態に国民全体を高める新しい教育計画であった。ラボー・サン=テチエンヌは、「革命を行い、隷属の鎖を断ち切ったのは知性であること、人間には無限の自己完成能力があること、人間の完成は彼が獲得する知識にかかっていること、人々が啓蒙されるほど政体もより完全なものに近づくこと、人々は啓蒙されるほど自由の価値を知り、自由を保持することができるようになること、知識が全員の手の届くものになればなるほど、それだけいっそう人々のあいだの平等が維持されること」として、良い教育計画が必要であると主張した。 1791年憲法第一編で次のように謳われた。 すべての市民に共通で、すべての人にとって欠くことのできない教育の部分にかんして、無償の公教育が設けられ、かつ組織される。その施設は、王国の区分と結合した関係において段階的に割当てられる。 — 1791年憲法 1791年憲法は翌1792年に破綻したが、この規定はフランス憲法の変遷で変化しながら、維持されていった。 フランス革命の混乱のなか、さまざまな教育機関の試行錯誤が行われたが、国庫と公教育にかかる費用の不均衡を解決する必要があった。そのなかで、小学校が子どもに社会で必要な基本的な道徳や能力を身につけさせるための重要な役割を担うことが確認された。また、批判精神を成長させるとともに産業を促進させる科学・技術教育の強化が訴えられた。この時代の教育論のなかでとりわけ鋭く対立したのは、理性にもとづいて知的な公教育を主張する立場と祖国愛にもとづいて国民の徳育を主張する立場であった。理性にもとづく知育はエリートに好意的な教育論になり、祖国愛を育成する徳育は民衆に好意的な教育論になった。啓蒙の精神を全員に広めるという理想と実際的な教育の不平等という問題がたびたび上がることになったが、最終的には労働者階級の教育と学識者階級の教育のそれぞれが国家の繁栄のためには必要なものであるという意見に収斂した。フランス革命中の1794年にエリート養成機関であるエコール・ポリテクニークや高等師範学校や国立工芸院が作られ、18世紀にはグランゼコールが設立された。 フランスは革命で社会紐帯や中間団体を破壊し個人を解放したため、それに代わる統合原理を国が提供しなければならないとされた。こうして、フランスにおいては公教育を代表とする公共サービス(公役務)が信頼され、「公共サービスがある自由を制限するのは、より優越的な他の権利・自由を擁護推進するためである」と了解されているという。
※この「革命期の公教育思想」の解説は、「フランスの教育」の解説の一部です。
「革命期の公教育思想」を含む「フランスの教育」の記事については、「フランスの教育」の概要を参照ください。
- 革命期の公教育思想のページへのリンク