地方反乱
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「インドネシア共和国革命政府」の記事における「地方反乱」の解説
時を同じくして、スマトラではさまざまな軍事指導者による「反乱」が行われていた。インドネシア陸軍では軍管区制がとられていたが、外島地域の軍管区の司令官は、部隊の財政状況を改善するため、自ら特産品のコプラやその他禁制品の密輸に手を染めるようになった。これらの作戦はすぐに中央政府に対する、政治・経済的なより大きい自治権の要求へと変わっていった。 要求は満たされずに終わったため、司令官たちはさらに踏み込んで、彼らの軍管区内で無血クーデターを起こした。一連の革命は成功裏に終わり、クーデター政権は地方政府のかわりに統治を行い始めた。彼らの政権は次のとおりである。 バンテン委員会(Dewan Banteng)第1軍管区(“ブキッ・バリサン師団”。東スマトラ)第4歩兵連隊長のアフマド・フセイン中佐が率いる政権。1956年12月20日から、中央スマトラ州の政権として統治をはじめた。 ガジャ委員会(Dewan Gajah)第1軍管区司令官のマルディン・シンボロン大佐が率いる政権。1956年12月22日に東スマトラ一帯の地方政府を引き継ぎ、ジャカルタとの関係を断ち切った。 ガルーダ委員会(Dewan Garuda)第2軍管区(“スリウィジャヤ師団”。南スマトラ)司令官のバリアン中佐が率いる政権。1957年1月15日に南スマトラ州地方政府にかわり統治を開始した。 ランブン・マンクラット委員会(Dewan Lambung Mangkurat)第6軍管区(“ランブン・マンクラット師団”。カリマンタン)司令官のハサン・バスリ中佐が率いる政権。1957年3月17日から南カリマンタン州の地方政府を代行した。 マングニ委員会(Dewan Manguni)第7軍管区(“ウィラブアナ師団”。東インドネシア全域)参謀長のフェンチェ・スムアル(インドネシア語版)中佐が率いる政権。1956年12月20日から北スラウェシ州の地方政府に取って代わった。 このクーデターにおいて、アフマドに政権を譲り渡した中央スマトラ州知事ルスラン・ムルヨハルジョ(インドネシア語版)の言葉には注意が必要である。 とりわけバンテン委員会、そして中央スマトラの人々全体も、国内国家を建てることを望んではいません。なぜなら、インドネシア共和国の地方政府と中央政府の間の関係は必ず正常へと戻るからです。インドネシアの国家と人民の安全を脅かす、混乱、緊張、不満といった感情を取り除く内閣さえあれば。 この当時、インドネシアは議会制民主主義体制下にあったが、宗教やイデオロギーにおいて目標が大きく異なる四大政党、すなわちインドネシア国民党(PNI)、マシュミ(Masyumi)、ナフダトゥル・ウラマー(NU)およびインドネシア共産党(PKI)が相克を繰り返し、議会は空転し内閣が乱立していた。一方、大統領のスカルノは外交で大きな成功を収めるも内政では指導力を発揮できず、議会制に幻滅していた。地方指導者たちの不満がこれらの生み出す地方格差と経済の停滞に端を発していたことを考えれば、中央の「正常化」が行われれば丸く収まるという主張も驚くにはあたらない。しかし現状に対する中央政府の見方は異なっていた。
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