地方反乱とマシュミ党禁止
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「マシュミ」の記事における「地方反乱とマシュミ党禁止」の解説
1956年3月、選挙後に発足した国民党首班のアリ・サストロアミジョヨ内閣にはマシュミ党からも入閣した。インドネシア独立後の議会政治に安定をもたらすべく実施された選挙だったが、その後の議院内閣制による政治運営も混迷した。閣僚の汚職や不正行為、議会の空転、地方の不満など、インドネシアは国家の統一ではなく、分裂の危機に直面していたのである。 とくに、ジャワ以外の地方では、ジャワ中心的な政治運営に対する批判が強かった。スマトラ島のゴム輸出、スラウェシ島のコプラ輸出などは独立後のインドネシアにとって貴重な歳入源であったが、その利益は中央政府に吸い上げられ、地元へは還元されない、という不満が地方で鬱積していた。こうした地方の現状にしびれを切らした地方軍は、独自にこれらの資源を密輸出し、中央政府および軍中央からの離反へと傾いていった。1957年3月、マシュミ党がアリ内閣から閣僚を離脱させ、内閣は総辞職した。 こうした危機を打開できない議会政治、多党制、政党政治家に対して、大統領スカルノは不満を強めていた。当時のスカルノは、1950年憲法下で大統領の権限を制約されており、リーダーシップを発揮できない状況だった。そこで彼は民選議会の解散、一党制の導入、そして、1950年憲法を停止し、大統領に強大な権限をあたえた1945年憲法に復帰することを大衆に訴えた。スカルノの腹案は、大統領の下にインドネシア国民党をはじめとする既存のナショナリズム団体、イスラーム勢力、そして伸張著しいPKIの三者が一体となる挙国一致体制だった(後にそれがスカルノ政治のスローガン「ナサコム」として結実する)。このスカルノ構想について、インドネシア国民党、PKI、ムルバ党などが支持を表明した。 しかし、マシュミ党は、スカルノの一党制論、すなわち多党制の否定と、PKIの国政参加に反発した。マシュミ党は、1956年12月に副大統領を辞任したハッタに内閣の結成を要請し、またその支持基盤がジャワ以外の外島(とくにスマトラ)にあったことから、マシュミ党は連邦制こそが地方を満足させるとして、地方反乱分子の声を代弁した。 1956年12月に西スマトラのパダン、北スマトラのメダンでは地方軍司令官が中央政府に反旗を翻し、地方行政府を接収した。地方反乱軍は中央政府に対して地方の自治権拡大、ハッタ内閣の組閣、軍中央の更迭などをもとめた。こうした地方軍の離反は、スマトラ全域、スラウェシ島、カリマンタン島にも拡大した。こうした地方軍の要求にマシュミ党とインドネシア社会党の指導者たちが呼応した。 そして、1958年2月15日、西スマトラの反乱軍はブキティンギを首都とするインドネシア共和国革命政府(Pemerintah Revolusioner Republik Indonesia、略称PRRI)の樹立を宣言した。マシュミ党からは、首相にシャフルディン・プラウィラネガラ(元蔵相)、副首相にナシール(党議長、元首相)、国防相兼法相にブルハヌディン・ハラハップ(元首相)といった閣僚経験者らが参加しており、スカルノの中央政府との対決姿勢をあらわにした。また、インドネシアにおける共産主義の伸張を危惧するアメリカ政府もPRRIを支援した。 しかし、マシュミ党と地方反乱軍に出馬を要請されていた元副大統領ハッタは国家分裂を危惧して、スカルノ政府に同調し、中央政府はPRRIの武力鎮圧を決定し、4月17日にパダンを攻略、5月5日にはブキティンギを占領した。 地方反乱に加担した責任を問われたマシュミ党は、1960年8月、スカルノによって非合法化された。ナシール、シャフルディン・プラウィラネガラは逮捕され、スカルノの「指導される民主主義」体制下では投獄生活を送った。 マシュミ党という「政敵」の一つを葬り去り、「指導される民主主義」体制を確立したスカルノもまた、1965年の「9月30日事件」により失脚し、その後、ナシールらは釈放されたが、その政治活動は禁じられた。また、スハルト体制期には旧マシュミ党関係者がインドネシア・ムスリム党を結成したが党勢は振るわず(1971年の第二回総選挙で得票率5.4%)、1973年には政党ゴルカル法(政党簡素化法)によって他のイスラーム系諸政党とともに開発統一党に合併された。
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