NUの社会的性格
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/03 21:45 UTC 版)
「ナフダトゥル・ウラマー」の記事における「NUの社会的性格」の解説
スカルノの「指導される民主主義」期からスハルト「新秩序」期にかけて、一見、政治的活動から後退しつづけたかに見えるNUが、インドネシア最大のイスラーム勢力に成長した契機は、1952年のマシュミ脱退と1984年のシトゥボンド全国大会にある。 NUのマシュミ脱退持の政治状況は、中央政府に対して不満を持つ地方軍部が公然と反旗を翻し、インドネシアが国家分裂の危機に陥っていく過程にあった。パンチャシラ護持を国是とするインドネシアにおいて、ジャワ以外の島々が独立することは、すなわちインドネシア国家の崩壊を意味していた。スカルノ政権と対立し、地方に支持基盤をもっていたマシュミは、この地方反乱に加担し、その後の反乱鎮圧とともに、スカルノによって非合法化された。マシュミを脱退していたNUは、スカルノによるイスラーム勢力の弾圧から逃れることができたのである。 また、スハルトの開発独裁期に開催されたシトゥボンド全国大会では、NUの政治活動からの撤退が決議された。しかし、これによってNUは政治活動の対立軸から逃れることで、むしろ公的な政治システムの外で活動する自由を得ることが可能となり、NUは農村部での勢力の維持と伸張を可能にした。 シトゥボンド全国大会で、議長に選出されたワヒドら若手指導者層は、NUが教義的に他宗教に寛容であることを表明し、他宗教や世俗集団とも協力関係を結ぶことを訴えた。また、人権や民主主義の促進を重視する革新的な活動を実施するため、NUの組織の内外に多くのNGOを作って、農村開発などの社会活動に着手した(Eldridge, 1995, pp.177-182)。こうしたNUの諸活動を評して、インドネシアにおける市民社会建設の素地を作ったともいわれている。
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