地方分権化
地方分権化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/21 09:32 UTC 版)
1740年ごろからコングが破壊される1898年までの帝国は、コングの都市を中核とした政治的に分権化された国家となった。セクの下で帝国を共に維持していた同盟関係は大部分が消滅し、コング帝国は主に連結された居留地や、コングに位置する商人階級の異なるメンバーによって支配された開拓地を通じてまとめ上げられた。コングが地域の商業やイスラム学の中心地となったのはこの時代のことであった。 コング帝国の組織にとって重要なことは、多くの政治的側面を指揮した商人階級の存在にあった。商人が管理した貿易にとってという点のみでなく、各商家が奴隷戦士によって保護された重視なルートに沿って一連の主要な交易拠点を確立したために、彼らの存在には大きな意義があったのである。このようにしてこれらの企業は交易路を保護し、商人の指揮により主に引き起こされた襲撃や組織的戦闘を可能にした。その中でも特に重要であったのが、セクとファマガの一族につながる2つの商家であった。自らの系譜をセクと結びつけた首領らはこの関係を示すため、時としてワッタラと称した。 これらの重要なルートが統制されたため、コングは金とコーラナッツ両方の取引拠点となった。これは諸都市の重要性および民間商人の軍隊が著しく成長する能力を高めた。 コングはウラマーや研究者の数が非常に多く、帝国全土でモスクが定期的に建設されたことで名を馳せた。しかしイスラム教に対する重要性は、権力の座にある上流階級の国家運営には影響を与えなかった。彼らはイスラム教からの正統性に由来せずにシャリーアも施行しておらず、フラニのジハード(英語版)をはじめとする西アフリカのジハード諸国とは根本的に異なっていた。重要な点は、帝国にて創出された戦士階級であるソナンギ(the sonangi)はイスラム教を信奉しておらず、時代が進むにつれアニミズム信仰を実践する別々の共同体に主に住んだことである。アイルランドの言語学者キーン(英語版)は1907年に、「また、想定されていたようにコングは狂信的ムスリムの温床でもない。しかしそれとは反対に、コングはその宗教的無関心によって、あるいはいかなる場合にも、その寛容な精神と、周囲の先住民族すべての宗教的見解に対する賢明な敬意によって、際立っている場所だと言ってもよい」と記している。 マンデ族の商人と都市住民、およびセヌフォ族の農民との間では、民族関係が大きく分裂したままであった。支配者層が民族的に同質な集団を作り出そうとする企図はほとんどなかったため、これらの民族集団は主に互いに、そして他の移民集団とともに存続していた。 政治的には分権化されていたものの、コング帝国はその領土の支配権を強く主張し続けており、1840年にはロビ族(英語版)の土地からの金の取引を制限的に統制した。
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