皇帝としての絶頂と最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/23 15:13 UTC 版)
「ヨヴァン・ネナド」の記事における「皇帝としての絶頂と最期」の解説
ネナドはハンガリー王位継承問題を短期間で終わる争いであると判断し、オスマン帝国からセルビア人の土地を取り戻すことに力を注いだ。1527年前半、東ハンガリーのヤーノシュ1世は、ネナドが支持するフェルディナーンド1世がオーストリアで東ハンガリー遠征の準備を進めている間に、ネナドを鎮圧しようとチャーキ・ラースロー率いる300人の騎士を派遣した。しかしこれはあまりにもネナドを過小評価した戦力であり、チャーキは4月前半には捕らえられ、処刑された。この後ネナドの勢力は最盛期を迎え、彼は自ら皇帝(ツァーリ)を名乗った。東ハンガリー王国はペレーニ・ペーテルを司令官として再び遠征軍を送ったが、4月後半のティサ川河畔のセーレーシュの戦いでネナドに敗れた。しかしペレーニはトランシルヴァニアや上ハンガリーの戦力を結集し、7月25日にセゲド近くで行われたセードファルヴァの戦いでネナドを決定的に打ち破った。 ネナドは重傷を負い、フェルディナーンド1世との合流を試みて撤退しようとしたが、戦いの翌日にトルニョシュでハンガリー軍に捕捉され殺害された。ネナドの首はヤーノシュ1世のもとに送られ、彼の軍隊は四散してセルビア独立の夢は潰えた。彼の将軍の一人ラドスラヴ・チェルニクは残党を率いてスレムを支配してオスマン帝国に、次いでハプスブルク帝国に従った。
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