皇帝との確執
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/23 06:38 UTC 版)
「グレゴリウス7世 (ローマ教皇)」の記事における「皇帝との確執」の解説
教皇による王位の剥奪の可能性という前例のない警告をうけて、ハインリヒ4世と宮廷は激昂。急遽ヴォルムスに教会会議を召集して対策を協議することになった。1076年1月24日に行われた会議には教皇に反感を抱いていたドイツの高位聖職者だけでなく、かつての教皇の盟友でありながら敵対者となった枢機卿ヒューゴ・カンディデゥスの姿もあった。カンディウスによって挙げられた訴状によって会議では教皇の廃位が決定された。議決は教皇批判に満ち、司教たちは忠誠の誓いを破棄した。ハインリヒ4世はこの議決を受けて、ローマにおける新教皇の選出を要請した。 ヴォルムス会議は二人の司教をイタリアに送り、ピアチェンツァでの司教会議においてロンバルドの司教たちから教皇廃位の同意を得ることに成功した。パルマのローランドが使者としてローマに送られ、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂で急遽ひらかれた司教会議において教皇の廃位のメッセージを伝えた。ローマの司教たちは一瞬静まり返ったが、すぐにハインリヒに対する非難で轟々となった。ローランドが生きてその場を出ることができたのは教皇自身のとりなしによるものであった。 すぐに教皇はハインリヒ4世の破門を宣言し、臣下の服従の誓いを解いた。この宣言は彼を教会共同体から締め出し、王位の剥奪を狙ったものであった。教皇による皇帝の破門は大方の予想を裏切って大きな影響を示した。ハインリヒ4世への服従を快く思っていなかったドイツの諸侯が教皇への支持を表明して立ち上がったのである。そしてハインリヒ4世にとってショックだったことは民衆の間にも教皇への同情が強まったことであった。ハインリヒ4世の父(ハインリヒ3世)は対立していた教皇達を廃位したことがあったが、それは教皇に対するローマ貴族の干渉を断ち切るためのもので、民衆の支持はうけていた。子であるハインリヒ4世の今回の決定は自分勝手な理屈によるものという印象が強く、民衆の支持を得られなかったのである。 ウィットスンにおいてハインリヒ4世は対策を協議する教会会議の招集を命じたが参加予定者はほとんどがこなかった。しかもザクセン公が再び叛旗を翻したことで、敵対者は増えていくばかりであった。
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