皇帝との別れとイタリア統一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/11 02:21 UTC 版)
「ヴィルジニア・オルドイーニ」の記事における「皇帝との別れとイタリア統一」の解説
1857年、同年4月5日から6日にかけて、カスティリオーヌ伯爵夫人邸から出てきたカルボナリのジュゼッペ・マッツィーニの配下3人が皇帝暗殺未遂容疑の被告人とされた。伯爵夫人も無実ながら共犯としてフランス国外退去処分になったため、ナポレオン3世と別れイタリアへ戻った。しかし、マチルド・ボナパルト王女やイタリア統一運動での"共犯"で信頼関係にあったジョゼフ・ポニャトフスキ(スタニスワフ家の出でトスカーナ大公国育ち)のおかげで翌月には戻ってきていた。 4年後の1861年、"統一イタリア"が成されたイタリア王国建国は、想像の域を出ないが、ナポレオン3世への彼女の影響力が大きかった。この年、彼女はパリへ戻りパッシー(パリ16区)に定住した。 普仏戦争においてフランス帝国が敗北し、ナポレオン3世が追放された直後の1871年、彼女は秘密裡にやってきていたプロイセン宰相ビスマルクと会見し、プロイセンによる「パリ占領」がいかに"致命的"なものになるかを説得、結果、パリがその占領を免れたことで分かるように、彼女の交渉が非常に説得的だったのかもしれなかった。 ヴィルジニアは、残りの人生をヴァンドーム広場26番地及び、1893年からカンボン通り (fr, パリ1区) 14番地のアパルトマンで暮らした。その部屋は、きっちりブラインドが下げられ、葬式のように黒く塗られ、鏡は全て曇っていた。自身が美と若さを失ったことを人に知られたくなかった彼女は、夜にならないと外出しないのだった。また、実現しなかったものの、1900年パリ万国博覧会において彼女の写真が展示されることを望んでいた。しかし1899年、ヴィルジニアは62歳で他界した。 墓所はパリ20区のペール・ラシェーズ墓地。
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