王位への復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/25 06:52 UTC 版)
「ヘンリー6世 (イングランド王)」の記事における「王位への復帰」の解説
その頃、マーガレットは逃亡先のスコットランドも追われ、フランスに逃亡せざるを得ない状況であった。フランスでの数年間は貧困生活が待っていたが、マーガレットは夫と息子のために王位を奪還することを誓っていた。彼女自身でなせることはほとんどなかったが、やがてエドワード4世は1469年から主要な支援者であるウォリック伯と弟のクラレンス公ジョージと相次いで仲違いした。フランス王ルイ11世の後押しで、1470年4月にフランスへ亡命した彼らはマーガレットと秘密同盟を結んだ。 ウォリック伯は自分の末娘アンを7月にヘンリー6世とマーガレットの息子エドワード皇太子と結婚させた後、9月にクラレンス公と共にイングランドに戻り、エドワード4世をブルゴーニュへ追い落とした後の1470年10月30日、ヘンリー6世を復位させた。しかし潜伏とそれに続く5年の幽閉の日々は彼の健康を蝕んでおり、何も認識出来ない無気力状態は更に悪化、キングメーカーとして権力を握ったウォリック伯とクラレンス公がヘンリー6世の名の下で事実上の統治を行った。政権基盤も弱く、エドワード4世の王位を狙っていたクラレンス公は当てが外れて不満を抱き、味方貴族への恩賞も与えられず、マーガレット・エドワード皇太子らランカスター派も一向にイングランドへ来ないなど危うい要素が沢山あった。 ヘンリー6世の復位期間は6ヶ月も続かなかった。間もなくウォリック伯はブルゴーニュに宣戦を布告し、ブルゴーニュ公シャルル(軽率公)はエドワード4世に王位奪還に必要な軍事的支援を与えることで応じた。エドワード4世は1471年3月にイングランドへ上陸、4月3日にクラレンス公を寝返らせると、11日にロンドンへ入城してヘンリー6世を捕らえ復位を果たした。ランカスター政権が瓦解した後、その支持勢力はヨーク派に各個撃破され、14日のバーネットの戦いでウォリック伯はエドワード4世に敗れ戦死、続いてイングランドへ到着したマーガレットらランカスター派は5月4日のテュークスベリーの戦いでヨーク派と衝突、ヨーク派は決定的な勝利を収め、エドワード皇太子は殺された。他のランカスター派の蜂起も鎮圧され、マーガレットは数年間捕虜となった後にフランスへ送られ、ランカスター派は崩壊しヨーク派の支配が確立された。
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