第一次世界大戦とユーゴスラビアへの併合
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「モンテネグロの歴史」の記事における「第一次世界大戦とユーゴスラビアへの併合」の解説
モンテネグロは第一次世界大戦で大きな被害を受けた。オーストリア=ハンガリー帝国によるセルビア侵攻のとき、モンテネグロは中央同盟軍に対して宣戦する時機を逸したが、5万の陸軍を一度に動かすことができた。オーストリアはモンテネグロとセルビアの合流を阻止するために別動部隊を派遣したが撃退され、堅固に要塞化されたロフテン山の頂から、モンテネグロ軍がカッテロ砲の砲撃を敵に対して行った。1914年8月10日、モンテネグロ歩兵軍はオーストリア駐屯軍に猛撃を加えたが優勢には回れなかった。オーストリア軍は再度セルビアに侵攻したが、彼らは防衛に成功してボスニアのサラエヴォまで到達した。しかし、三度目の侵攻でモンテネグロ陸軍は兵力の差に屈し、オーストリア軍はセルビアをとうとう抜いた。モンテネグロも1916年1月の侵攻をうけ同盟軍に占領された。 ニコラ王はイタリアとフランスに飛んだ。フランス政府は作戦指揮本部をボルドーに移転していた。そして、セルビア軍はモンテネグロをオーストリアから解放した。新たに召集されたポドゴリツァの国民会議(Podgorička skupština)はセルビア軍に管理され、平和と敵との分離を求める王を非難した。そしてニコラ王は廃位され、帰国を禁じられた。セルビアは1918年11月29日にモンテネグロを併合、モンテネグロはセルビア、スロベニア、クロアチアに取り込まれ、後にユーゴスラビア王国を形成することとなる。1919年に併合反対派が武装蜂起(クリスマス蜂起)を起こしたが、セルビア軍により鎮圧された。 戦間期にはユーゴスラビア王アレクサンダル1世がユーゴスラビア政府を壟断していた。ニコラ1世は王位への復帰を最後まで諦めなかったが、継承者である孫のミハイロ・ペトロヴィチはカラジョルジェヴィチ家の統治を承認し、王位請求を行わなかった。
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