第一次世界大戦と『帝国主義論』
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「ウラジーミル・レーニン」の記事における「第一次世界大戦と『帝国主義論』」の解説
1914年に第一次世界大戦が勃発した時、レーニンはオーストリア=ハンガリー帝国領のガリツィアに居た。ロシア帝国とオーストリア=ハンガリー帝国は敵国同士となったため、ロシア国籍のレーニンは逮捕され、少しの間収監された。釈放後、レーニン夫妻はベルンに戻り、1916年2月にはチューリヒに居を移した。レーニンはドイツ社会民主党が第二インターナショナルのシュトゥットガルト決議(社会主義政党が戦争に反対することを義務付けていた)に反し、自国の戦争遂行を支持したことに怒り、第二インターナショナルは消滅したものとみなした。その後、社会主義者による1915年9月のツィンマーヴァルト会議と1916年4月のキーンタール会議に出席し、全ヨーロッパでこの「帝国主義戦争」を、プロレタリアートが貴族階級・ブルジョワ階級に立ち向かう「内乱」へと転化するよう、各国の社会主義者に呼びかけた。 1916年7月には『資本主義の最高の段階としての帝国主義(帝国主義論)』の執筆を完了した。翌1917年の9月に出版されたこの著作でレーニンは、帝国主義が資本家による利益追求の結果として生じる国家独占資本主義の産物であると論じた。その上で、競争と衝突は今後もエスカレートし、大国間の戦争は帝国主義政権がプロレタリア革命によって打倒され、社会主義政権が樹立されるまで継続すると予想した。同じ7月には母マリアがペトログラードで死去したが、レーニンは葬儀に参列することができなかった。母の死はレーニンを意気消沈させ、自らもプロレタリア革命を目撃する前に死ぬことになるのではないかという恐怖を抱かせた。
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