第一次世界大戦での戦歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 14:51 UTC 版)
パリ砲はパリから75マイル(約120km)の位置にあるランの付近、クシー(Coucy)の森に置かれた。最初の発射は1918年3月21日午前7時18分、北緯49度5分から西南西の方位角232度に向け発射された。通常の砲弾の射程にドイツ軍がいなかったため、最初フランス側では航空機からの爆弾投下と考えたが飛行機を見た者はなく、集められた破片により、砲撃だと判明した。全体でおそらく320 - 367発の砲弾が発射され、250名が死亡し620名が負傷、家屋などにも相当の被害が出た。 パリ砲は、1918年8月、連合軍の進軍に脅かされたことにより、ドイツに撤退した。その後連合軍がこの砲を捕捉することはなく、終戦近くにドイツによって完全に破壊されたと考えられている。予備の砲座がChâteau-Thierryの近くでアメリカ陸軍に接収されたが、砲そのものは全く発見されなかった。 この砲は、バビロン・プロジェクトと呼ばれるイラクのスーパーガン(多薬室砲、ムカデ砲)構想(湾岸戦争で破壊された)を率いた、ジェラルド・ブルに多大な影響を与えた。彼はパリ砲の歴史を研究し、この砲に関する書籍を出版した。
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