第一次世界大戦と1920年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 14:05 UTC 版)
「日米関係」の記事における「第一次世界大戦と1920年代」の解説
第一次世界大戦最中の1917(大正6)年11月2日、ワシントンD.C.で日本の特命全権大使・石井菊次郎とアメリカ合衆国国務長官ロバート・ランシングとの間で「石井・ランシング協定」が締結された。これは、中国での特殊権益に関する協定で、公文による共同宣言という形式になった。ワシントン体制への道に通じた日本による対米協調政策の結果であった。 第一次世界大戦が開始した頃から、中国大陸における日米両国の利権問題やアメリカ国内での排日運動の動きなど、日米間には緊張した空気が流れていた。そうした中で、明治期にアメリカ留学の経験のある日本人たち、両国間の友好関係を強く望む日米有識者たち、さらには東京在住の知日派のアメリカ人たちの間で民間レベルでの日米交流団体を立ち上げようという動きが起こっていた。 1917(大正6)年4月、激動する国際情勢の中で日米両国の有識者たちによって、日米両国人が互いに親しく交流し、相互理解を促進することを誓って「日米協会」(現在は一般社団法人)が設立される。これは、現在も日本で最も歴史と伝統のある日米民間交流団体である。以来日米両国及び世界の平和と安定を願い、より良い両国関係を築いていく為、互いの歴史・文化・慣習・国民性などを尊重しながら、教育・文化交流・人物交流・知的交流などの活動を行ってきた。 初代会長にはハーバード大学を卒業し、大日本帝国憲法の起草にも関わった金子堅太郎、名誉会長には時の駐日アメリカ合衆国大使ローランド・モーリスが就任、名誉副会長には徳川家達(後、第2代会長、徳川宗家第16代当主)、渋沢栄一(「日本資本主義の父」、理化学研究所創設者)、高橋是清(大蔵大臣、二・二六事件犠牲者の一人)、高嶺譲吉など、執行委員には新渡戸稲造(『武士道』著者、国際連盟事務次長)、団琢磨、井上準之助(日本銀行総裁、大蔵大臣)など時の政財界や学界を代表する日本人達が名を連ねた。 第一次世界大戦では両国とも連合国の一員として、戦勝国となった後のパリ講和会議に参加した。その中でウッドロウ・ウィルソン大統領が提唱した「十四か条の平和原則」の中で「国際連盟の創設」を掲げていたが、その実現のところで、日本は加盟して常任理事国の一国ともなり、事務次長職に自国出身者を輩出するなどもしたが、国家元首かつ政府の長が提唱者であった肝心のアメリカ合衆国は連邦議会が加盟を否決したため、第二次世界大戦後の国際連合設立に伴い解散するに至るまで、加盟することはなかった。 1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災直後には、被災しながらも協会はアメリカの「ヘルプ・ジャパン(HELP JAPAN)」の呼びかけのもとに、アメリカからの多額の義援金の受取窓口となり、救援物資や医師・看護婦の派遣受け入れに尽力した。また初めて大西洋無着陸飛行に成功し、世界的な英雄となったチャールズ・リンドバーグが来日した時、滞在中の世話をしたのも日米協会であった。 世界恐慌前の1920年代は「狂騒の20年代」と呼ばれるほどアメリカ経済にとって最盛期だった。 1927(昭和2)年には、日米関係の改善を狙い、アメリカから日本へ「青い目の人形」が贈呈された。日本からもその返礼として、答礼人形がアメリカへ贈呈された。
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