第一次世界大戦と共同統治領の終焉とは? わかりやすく解説

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第一次世界大戦と共同統治領の終焉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:23 UTC 版)

共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」の記事における「第一次世界大戦と共同統治領の終焉」の解説

第一次世界大戦は、ボスニア・ヘルツェゴビナにも甚大な影響及ぼした大戦期間を通じて当時ボスニア・ヘルツェゴビナ人口5分の1にあたる36万人もの犠牲者出たという。 1917年5月30日開戦以来停止されていた帝国議会復活し帝国諸民族希望述べられた。 ここでスロヴェニア人中心とする南スラヴ人議員からなる「ユーゴスラヴィア・クラブ」が、帝国内の南スラヴ地域統一され政治単位として帝国二重制から三重制へと改組するという旨の「五月宣言」を表明した。 この宣言は翌18年10月16日に「ハンガリー聖なる王冠属す諸国保全決し侵害しない」という文言付き認められた。 しかし敗色濃厚となっていた当時、もはや南スラヴ人オーストリア=ハンガリー帝国枠組み残ろうとはしておらず、8月には既に南スラヴ人自決権行使動き始まって10月6日にはザグレブで「スロヴェニア人クロアチア人セルビア人民族会議」が創設されていた。 こうして10月29日、この民族会議権力機関とするスロヴェニア人クロアチア人セルビア人国の独立宣言され共同統治領事実上消滅した独立国際的承認受けられなかったため名目上はまだオーストリア=ハンガリー帝国領として扱われていたが、11月3日オーストリア=ハンガリー帝国休戦協定調印し最後の皇帝カール1世11日オーストリア帝国の、13日ハンガリー王国権利放棄したことで、共同統治領帝国とともに完全に消滅した

※この「第一次世界大戦と共同統治領の終焉」の解説は、「共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」の解説の一部です。
「第一次世界大戦と共同統治領の終焉」を含む「共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」の記事については、「共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」の概要を参照ください。

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