第一次世界大戦と共同統治領の終焉
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「共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」の記事における「第一次世界大戦と共同統治領の終焉」の解説
第一次世界大戦は、ボスニア・ヘルツェゴビナにも甚大な影響を及ぼした。大戦期間を通じて、当時のボスニア・ヘルツェゴビナの人口の5分の1にあたる36万人もの犠牲者が出たという。 1917年5月30日、開戦以来停止されていた帝国議会が復活し、帝国諸民族の希望が述べられた。 ここでスロヴェニア人を中心とする南スラヴ人議員からなる「ユーゴスラヴィア・クラブ」が、帝国内の南スラヴ地域を統一された政治単位として帝国を二重制から三重制へと改組するという旨の「五月宣言」を表明した。 この宣言は翌18年10月16日に「ハンガリーの聖なる王冠に属する諸国の保全を決して侵害しない」という文言付きで認められた。 しかし敗色濃厚となっていた当時、もはや南スラヴ人はオーストリア=ハンガリー帝国の枠組みに残ろうとはしておらず、8月には既に南スラヴ人の自決権行使の動きが始まって10月6日にはザグレブで「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人民族会議」が創設されていた。 こうして10月29日、この民族会議を権力機関とするスロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人国の独立が宣言され、共同統治領は事実上消滅した。 独立が国際的承認を受けられなかったため名目上はまだオーストリア=ハンガリー帝国領として扱われていたが、11月3日にオーストリア=ハンガリー帝国が休戦協定に調印し、最後の皇帝カール1世が11日にオーストリア帝国の、13日にハンガリー王国の権利を放棄したことで、共同統治領は帝国とともに完全に消滅した。
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