第一次世界大戦と大恐慌(1915年 - 1940年)
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「ニューヨーク・エア・ブレーキ」の記事における「第一次世界大戦と大恐慌(1915年 - 1940年)」の解説
1915年になると、ニューヨーク・エア・ブレーキは真空ブレーキの製造設備を第一次世界大戦向けに振り向けた。1915年時点で年間470万ドルであった売り上げは、1916年には2400万ドルへと増加した。1918年までには会社は馬匹牽引の大砲の製造など、軍需関連の製造で7,000人を雇うようになっていた。 大戦後、さらに成長しつつある貨物鉄道事業に向けて新しいブレーキシステムの開発が必要であると考えられた。ニューヨーク・エア・ブレーキの技術者は後にABブレーキとして知られるようになるブレーキの開発を行った。1930年代中頃、ABブレーキが広範に装備されつつあるのと同時期に、近代的な高速機関車・旅客列車向けの電磁自動空気ブレーキが開発され、ウォータータウン工場で生産された。 大戦後の売り上げ急減を受けて、ニューヨーク・エア・ブレーキは新しい市場を模索した。1919年に会社はスリーポイント・トラック (Three-Point Truck) を開発して売り込んだ。このトラックは15 フィートのホイールベースで全長は19 フィートあり、自重は8,100 ポンド、3トンから6トンの搭載量があった。しかしこれは成功を収められなかった。 1925年、新しい経営陣はガーリンガー油圧材木運搬機 (Gerlinger hydraulic lumber carrier) を導入することにより自動車産業への再参入を発表した。この運搬機はエンジンと運転席の上に材木ラックを搭載していた。しかしこのプロジェクトもすぐに消え去った。 ウェスティングハウスとニューヨーク・エア・ブレーキは1929年に、古くなったKブレーキの更新のための開発を開始した。世界恐慌により新しいブレーキの開発は遅れたが、しかし中止されることはなく、1932年4月にニューヨーク・エア・ブレーキは世界最大の200両分の試験線の建設を開始した。1934年にはアメリカ鉄道協会 (AAR) が新しい複合ABブレーキの採用を投票した。恐慌にもかかわらず、会社は300人の雇用を大半はパートタイムながら維持した。
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