第一次世界大戦と市電黄金期
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「東京都電車」の記事における「第一次世界大戦と市電黄金期」の解説
東京市電の発足後、東京市電気局は路線網の大規模拡充を図り、1913年(大正2年)度から1916年(大正5年)度までの4年間に総額1317万6000円を投じて未成線128.7kmを整備する第一次継続事業計画に着手した。東京市電は発足時点で既に営業キロ98.8km(軌道延長192.4 km)、局員7861名、車両1054両、1日の乗客数約51万人という規模を有していたが、東京鉄道時代に特許権を取得して開業に至っていない未成線も180km余り引き継いでおり、市有化で電車の整備が進むと市民から大きな期待が寄せられていたためであった。当初は全ての未成線を4カ年計画で整備する予定であったが、財政への悪影響を懸念した監督官庁の指導で計画を第一期と第二期に分割し、このうち第一期線が第一次継続事業計画の対象となった。 積極的な拡大方針により、東京市電の営業キロは市有化から1914年(大正3年)度末までの5年弱のうちに30km以上伸びて128.0 km(軌道延長255.3 km)となり、市内のみならず目黒、渋谷、新宿、大塚、巣鴨など当時まだ東京市外の郡部だった地域にも電車が開通した。ところが1914年8月に第一次世界大戦が勃発すると、金融市場の混乱で市債発行による資金調達が難しくなった上、日本国内では大戦景気と呼ばれる好景気で物価が著しく高騰し路線整備にも支障をきたすようになった。やむなく市電気局は第一次継続事業計画の見直しを行い、1915年(大正4年)2月には市会の議決を得て修正予算案と事業期間の2年延長を決定したが、1915年度の新規開業はわずか0.4 km、1916年(大正5年)度は皆無に終わり、大規模な新線建設は市有化後の数年間推進されただけで頓挫してしまった。運賃も物価高騰に伴い1916年7月には片道4銭から5銭(往復9銭)、1920年(大正9年)6月には7銭(往復14銭)へと値上げされた。 一方で好景気とあって交通需要も増大著しく、1日の乗客数は1916年度の約72万人から1919年(大正8年)度には約108万人、1922年(大正11年)度には約131万4000人と6年あまりで約1.8倍の増加となった。これにより営業係数34.3 を記録した1917年(大正6年)頃から経営状況は好転し、以降も1921年(大正10年)度、1922年度には減債基金の積立や市経済への繰入を行ってなお400万円以上の剰余金を計上するなど大幅な黒字経営に転換した。この時期の東京市電はほとんど唯一の近代的交通機関として市内交通の8割を担っており、1910年代後半から20年代前半にかけての時期はまさに東京市電の「黄金期」であった。 もっとも、乗客が増えてもそれを輸送する路線や電車の整備が進んでいなかったため、黄金期の市電では慢性的な混雑が大きな問題となった。特に1910年代から出現した通勤ラッシュ時の混雑は深刻で、乗車まで30分から1時間待ちになることや乗り切れない乗客が車外にまで鈴なりにぶら下がるといったことが常態化し、「東京名物満員電車」として当時の絵葉書や俗謡(東京節)の題材にされるほどであった。この事態に市電気局は日本の路面電車車両としては初の3扉電車1653形200両を製造したほか単車と呼ばれる小型電車の2両連結運転を行うなどの対策を採ったが、より抜本的な解決策として1920年度から新たに第二次継続事業計画に着手した。第二次継続事業計画は総事業費1億3230万円を投じて未成線約80kmの建設と車両2050両の新造及び改造、車庫15か所と変電所20か所の新設、さらに既設線の架線や軌道の改良も行う一大プロジェクトであったが、結局関東大震災の発生で見直しを余儀なくされた。
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