第一次世界大戦と国体
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1914年(大正3年)夏、第一次世界大戦が勃発する。これは世界未曾有の大乱であり、その惨禍は思想界に動揺をもたらす。思想の動揺は大戦初期から徐々に始まり、大戦末期に近づくにつれて表面化する。特に大戦末期のロシア革命と米国参戦により、過激思想と米国流のデモクラシーが日本に押し寄せる。ある者はこれを利用しようとし、ある者はこれを排除しようとし、思想界は未曽有の混乱を呈する。しかもこの間、自由思想も国民教育の普及と新聞雑誌の勢力増大により徐々に内発的になってゆく。 第一次世界大戦の勃発により欧米においてデモクラシー論が盛んになり、日本もその影響を受けてデモクラシーの論議が増えてゆく。明治末年に民本主義という言葉を造語したといわれる茅原華山は1915年(大正4年)1月『中央公論』誌に「新しき世界 将に生まれんとす」と題し、民衆の政治的・経済的勢力が増大する傾向を紹介する。同年4月『太陽』誌上に織田萬が「戦争とデモクラシーの消長」を説き、千賀鶴太郎が「民主主義と開戦」と題して第一次世界大戦とデモクラシーの関係を述べるなど、デモクラシーの議論が広がっていく。同年10月には鈴木正吾が『新愛国心』を著す。同書に次のように言う。 序文で曰く「日本に民本政治を実現せしめんとする努力の足跡である」と。 「光栄なる謀反人」という節で曰く「我らは危険思想家・謀反人という言葉を、官僚思想に対する危険思想家、官僚政治に対する謀反人という意味に解釈して、躊躇なく承認する」と。 「民本政治へ」という節で曰く「『人民のために人民が作った人民の政府』を実現することによって日本人の真の国民性が出て来る」と。 「革命の行進曲」という章で曰く「鐘が鳴る、鐘が鳴る」、「偶像の断末魔」、「日本人の美しい偶像は時々刻々と破壊せられて行く」と。 著者らが携わる雑誌『第三帝国』でいうところの第三帝国とは「政治的の意味における民本主義である」「デモクラシーが政治の上に現れた帝国である」といい、「そういう帝国を速やかに建設しなければならぬ」、「偶像を片端から壊していかなければならぬ」と主張する。 国体論者は、民本主義の中に日本の国体を害するものがあるかもしれないと恐れ、これに対抗してますます国体を宣明しようとする。ただし従来と異なる新しい国体論が登場したわけではない。当時の主な国体論として、佐藤範雄『世界の大乱と吾帝国』、廣池千九郎『伊勢神宮と国体』、市村光恵『帝国憲法論』、大隈重信『我国体の精髄』、千家尊福『国家の祭祀』、深作安文『国民道徳要義』などがある。 1916年(大正5年)1月、吉野作造が『中央公論』に「憲政の本義を説いて其(その)有終の美を済(な)すの途(みち)を論ず」と題して百頁を超える長大な論文を掲げて民本主義を鼓吹する。吉野作造は民主主義と民本主義を区別する点で上杉慎吉と同じであるが、上杉の民本主義が単なる善政主義に過ぎないのに対して、吉野の民本主義は善政主義に民意権威主義を加え、民意権威主義の要求として参政権拡張と議院中心主義を主張する。吉野の民本主義論は大きな反響を呼び、上杉慎吉、室伏高信、茅原華山、植原悦二郎、大山郁夫など、いわゆる民本主義論者の反対批評を受ける。このほか津村秀松、永井柳太郎、安部磯雄、小山東助などが民本主義を論じる。これらの中では室伏高信の説が異彩を放つ。 1916年(大正5年)7月、内務省神社局長塚本清治が地方官会議の席上で「敬神思想の根本及び国体の関係」を説く。その後『国学院雑誌』に国体に関する論説が数々載る。すなわち、同年11月号に植木直一郎が「国体の基本」と題して、日本の国体が特殊である所以を論じる。翌6年1月号に白鳥庫吉が「国体と儒教」と題して、日本の国体と儒教が異同するところを述べ、同月号に市村瓚次郎が「国体と忠孝」を載せる。河野省三は同年8月号に「我が国体」を載せ、さらに翌月『国民道徳史論』を著し、その第4章に「我が国体」と題して一層具体的に説明する。
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