第一次世界大戦と全盛期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 06:15 UTC 版)
「ラサ島鉱業所」の記事における「第一次世界大戦と全盛期」の解説
1914年に第一次世界大戦が開戦してしばらくの間は肥料価格が低迷したものの、その後、船舶の不足から運賃が高騰したことがきっかけとなって外国産リン鉱石の輸入が激減する。1913年にはリン鉱石の輸入は約20万トンであったが、1916年には半分の約10万トンに落ち込んだ。しかも好景気で米価等農作物の価格も上昇して、農家の肥料需要も旺盛となった。 第一次世界大戦によってリン酸肥料業界は空前の好景気に沸いた。中でもほぼ日本国内唯一のリン資源であるラサ島鉱業所を擁するラサ島燐礦株式会社は、その強みを存分に発揮する。ラサ島産のリン鉱石の評価も高まっており、海外からの輸入が激減する中でラサ島鉱業所のリン鉱石産出量は拡大を続け、1918年にはピークの約18万2600トンに達し、鉱夫の数も約2000名に膨れ上がった。 最盛期となったラサ島鉱業所では、ダイナマイトないし鶴嘴や鉄棒を用いて手作業により採掘されたリン鉱石は、地表から3、4メートル掘り下げられた場所を縦横に走る軌道によって運搬され、各鉱区で集められた後、インクラインを用いて乾燥場に運ばれた。乾燥場では水分を2パーセント以下にして、大きな塊は2インチ以下に破砕した後、出荷まで貯鉱場で保管された。出荷時は貯鉱場からトロッコで桟橋まで運ばれ、桟橋で艀に積み込み、艀から沖合いに停泊中の輸送船に積み込んだ。通常、一日2000トン前後のリン鉱石積み込みを行っていたといい、一日3000トンという記録を作ったこともある。しかし台風シーズンの7月から10月にかけては輸送がままならないことが多かった。 空前の肥料業界の好況が続く中、当初、輸出用の重過リン酸石灰製造用に建設された設備は、研究によってラサ島鉱業所のリン土を原料として過リン酸石灰の製造が行える目途が立ったため、旺盛な国内需要を満たすべく、一部を除いて過リン酸石灰製造に宛てられることになった。 1919年4月、上野精養軒でラサ島開発10周年の記念祝賀会が開催された。祝賀会には原敬首相を始め各界の著名人が参加し、恒藤社長は得意の絶頂にあった。恒藤は第一次世界大戦中、リン鉱石の輸入が滞る中で農家にリン酸肥料の供給が続けられたのは、国内唯一のリン鉱石産地のラサ島のおかげであり、いささかなりとも国家のために貢献できたのは喜びに堪えないと自負していた。
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