史料による事績
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『類聚国史』延暦11年1月11日(ユリウス暦792年2月7日)条にのみ見える。それによれば、斯波村(志波村)の夷である胆沢公阿奴志己等は使者を陸奥国府に送り、王化に帰したいと日頃考えているが、伊治村の俘等が道を遮っているので、国家の力でそれらを制して蝦夷が帰降するための「降路」を開いて欲しいと申し出た。 陸奥国司は阿奴志己等に物を与えて放還したので、報告を受けた政府は「夷狄の性、虚言にして不実なり。常に帰服を称すれども、唯に利のみ是れ求む。今より以後、夷の使者有れども、常賜に加ふること勿れ」と命じている。
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史料による事績
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『類聚国史』延暦11年7月25日(ユリウス暦792年8月17日)条に見える。それによれば、夷(えみし)爾散南公阿波蘇が王化を慕って入朝したいと望んだところ、それを嘉しとした朝廷は入朝を許して路次の国では壮健の軍士300騎をもって国境で迎接し、国家の威勢を示すよう命じた。 阿波蘇が王化を申し出る半年前、『類聚国史』延暦11年1月11日(ユリウス暦792年2月7日)条では、胆沢公阿奴志己等が陸奥国府に使者を送り、王化に帰したいので蝦夷が帰降するための「降路」を開いて欲しいと申し出たが、陸奥国司は阿奴志己等に物を与えて放還し、朝廷も今後は蝦夷に物を与えないよう命じている。阿奴志己が申し出た1月の時点と阿波蘇が申し出た7月以降では、王化に帰したいと願う蝦夷に対する政府の取り扱いが変化している。 『類聚国史』延暦11年11月3日(ユリウス暦792年11月21日)条によれば、阿波蘇は宇漢米公隠賀や俘囚・吉弥候部荒嶋とともに長岡京へと入京し、朝堂院で饗応を受けるとともに、荒ぶる蝦夷を手懐けた功を賞されて、阿波蘇は蝦夷爵の第一等を授けられ、天皇は今後も忠誠を尽くすよう宣命をのべた。
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史料による事績
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秋田城停廃をめぐる『続日本紀』宝亀11年(780年)8月23日条にのみ見える。この頃、陸奥国では蝦夷との戦争(宝亀の乱)が激化し、3月には東北経営の中心拠点たる多賀城が一時陥落する事態にまで至っていた。 その時、「狄志良須俘囚宇奈古等」が、「己らは官威に拠って久しく城下にある。今、この秋田城はついに永く棄てるところとなるか。また元のように交代制で保つことになるのか」と訴えでた。出羽国鎮狄将軍の安倍家麻呂は、これを都に報じて対応を問うた。朝廷は秋田城に多少の軍士を派遣して守らせ、国司のうち一人を専門にあたらせよと命じ、また由理柵の守備についてもあわせて指示した。そして、狄俘と百姓によく尋ねて彼らとこちらの利害をつぶさに言え、という答えを下した。 この後のやりとりは伝わらないが、秋田城は国司の一人、「介」を常駐させて保たれた。
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