史料に現れる同朋衆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/06 03:07 UTC 版)
1333年(元弘3年)に鎌倉幕府軍の斎藤新兵衛入道らが千早城を攻めた際には、200人もの時衆がこれに従っていたと「正慶乱離誌」に記述がある。また1338年(延元3年)に新田義貞が越前国藤島で戦死した時には、時衆の僧侶8人が現れ、義貞の遺骸を輿に載せて往生院(長崎往生院称念寺)へ運んだと西源寺本「太平記」にある。 「大塔物語」では、信濃国へ下向する小笠原長秀の行列の中に、連歌、早歌、物語、舞、歌など多芸の頓阿弥という人物がいたという。京都の若宮八幡宮社所蔵の絵巻物「足利義持若宮八幡宮社参図絵巻」には、行列に同行する3人の法体姿がおり、同朋衆と見られている。
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