史料の再評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 08:38 UTC 版)
その後の研究で「捄」という字の和訓は「総」と同じ“ふさ”であること、天観という上総出身の僧侶がこの時代に実在していた事が明らかとなり、律令制以前の表記は「総」ではなく、捄国・上捄・下捄など「捄」の字が用いられていた可能性が高くなった。「房をなして実る物」という「捄」の意味は麻の実にも該当することから麻と総を間接的には結び付けることが可能となり、この地域は「捄」と称され令制国成立後同じ和訓を持つ「総」に書き改められたとすれば、『古語拾遺』の説話は簡単には信じられないながらも、一定の評価がされることとなった。 それに対し『日本書紀』にある改新の詔の文書は、編纂に際し書き替えられたことが明白になり、大化の改新の諸政策は後世の潤色であることが判明、『日本書紀』による編年は、他の史料による多面的な検討が必要とされるようになった。このことから、令制国の成立を大化の改新からそう遠くない時期とした従来の定説は崩れ、多くの令制国が確実に成立したのは、大宝元年(701年)に制定された大宝律令からといわれる。 このように、現在では一般的に国(令制国)の成立は大宝律令制定によるとされるようになった。だが、上総国・下総国についてはこれとは別の見方がある。下総国については『常陸国風土記』に香島郡(鹿島郡)の建郡について、「大化5年(649年)に、下総国海上国造の部内軽野以南の一里と、那賀国造の部内寒目以北の五里を別けて神郡を置いた」とあり、孝徳期以前に成立していたことがうかがえ、また『帝王編年記』では上総国の成立を安閑天皇元年(534年)としており、語幹の下に「前、中、後」を付けた吉備・越とは異なり、毛野と同じく「上、下」を上に冠する形式をとることから、6世紀中葉の成立とみる説もある。
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