史料の不確実性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 19:05 UTC 版)
「ギオルギ8世 (ジョージア王)」の記事における「史料の不確実性」の解説
ギオルギ8世の生涯は、複数の史料の間で矛盾した記述があることで知られ、様々な説が唱えられている。中世ジョージアの君主の生涯に関する最大の史料である『ジョージア年代記(グルジア語版)』では、ギオルギ8世に関しての在位期間、家族、そして年表に至るまで、大部分に混乱が見られる。18世紀ジョージアの歴史家ヴァフシティ・バグラティオニは著者不明の伝記を参考に、ギオルギ8世の治世を短く10年としている。他方、19世紀フランスの東洋学者マリー=フェリシテ・ブロッセ(フランス語版)はギオルギ8世の治世を24年としている。この24年は、父アレクサンドレ1世の退位(1442年)からギオルギ8世の死(1476年)までの期間と一致している。ギオルギ8世が署名した最古の勅許状は、ヴァフタング4世の死から1年に満たない1447年に遡るが、1449年の勅許状には特段の説明なくギオルギ8世の治世が5年目であると記載されているため、ギオルギ8世は1444年に王位に就いていたとも推測できる。また特段の説明はないが、別の勅許状では1454年がギオルギ8世の治世15年目であるとの言及もある。 20世紀北アイルランドの歴史学者W・E・D・アレン(英語版)は中世の資料に基づき、コンスタンティネ1世の息子で1408年から1412年まで共同王となったギオルギ(フランス語版)王子を『ジョージア年代記』で王と見なしていることから、ギオルギ8世をギオルギ9世としている。この説は現代の歴史学者によって反駁されている。アレンのこの説によると、ギオルギ8世は兄ヴァフタング4世の後の1446年に即位したのではなく、弟のディミトリ3世の没後の1453年に戴冠したとされる。さらにギオルギ8世は将来のコンスタンティネ2世(グルジア語版)の父となり、1471年にカヘティ王となり、ディドエティ(グルジア語版)のダヴィト(おそらくディミトリ3世の息子)の後を継ぎ、1492年まで統治した。ディドエティのダヴィトに関する存在は依然として議論の対象となっているが、現代の歴史学者はディドエティのダヴィトに対して王の称号を与えておらず、ギオルギ8世との親族関係も肯定していない。同じ史料によると、ダヴィト8世は1469年に崩御したと記載されている。 『ジョージア年代記』ではカヘティ王国の王として明確に、ギオルギの後継としてヴァフタングの名を記している。マリー=フェリシテ・ブロッセはこのヴァフタングについて、イメレティ王バグラト3世(グルジア語版)の弟で、16世紀初頭にバグラト3世と対立したヴァフタング(英語版)王子であると特定しているが、カヘティ王国の関連については不明となっている。
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