ヴァフタング4世とは? わかりやすく解説

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ヴァフタング4世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/20 00:55 UTC 版)

ヴァフタング4世
ვახტანგ IV
ジョージア王ヴァフタング4世のレリーフ

ジョージア王
在位期間
1442年1446年
先代 アレクサンドレ1世
次代 ギオルギ8世

出生 1413年
死亡 1446年12月
埋葬 バナ大聖堂英語版
王室 バグラティオニ家グルジア語版
父親 アレクサンドレ1世
母親 ドゥランドゥフティwikidata
配偶者 シティハトゥニグルジア語版
信仰 ジョージア正教会
親署
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ヴァフタング4世グルジア語: ვახტანგ IVグルジア語ラテン翻字: Vakhtang IV1413年頃 – 1446年12月)は、バグラティオニ朝グルジア語版ジョージア王国の王(在位期間1442年–1446年)。

生涯

ヴァフタングはジョージア王アレクサンドレ1世の長男であり、母親はシュニク公ベシケン2世オルベリアニwikidataの娘ドゥランドゥフティwikidataであった。ヴァフタングは1433年、父アレクサンドレによって弟たちとともに副王に任命された。1442年に父アレクサンドレが退位すると、ヴァフタングは王位を継承し、弟のディミトリギオルギを副王の座に残した。ヴァフタングの統治は、貴族間の競争と王国の全般的な不安定さによって脅かされた[1]。18世紀の歴史学者ヴァフシティ・バグラティオニによると、ヴァフタングは黒羊朝ジャハーン・シャーペルシア語版によるトルクメンのジョージア侵攻英語版にも直面した。ヴァフタングはジョージア南部アハルツィヘにてジャハーン・シャーと接触。激しい戦いとなったが、撃退に成功した。ジャハーン・シャーはその夜に戦場を離れ、タブリーズへと帰還した。

ヴァフタングは1442年にザザ・パナスケルテル=ツィツィシヴィリグルジア語版の娘シティハトゥニグルジア語版と結婚。シティハトゥニとは子供なく1444年に死別。ヴァフタングは1446年12月に死去し、タオ=クラルジェティグルジア語版バナ大聖堂英語版に、シティハトゥニとともに埋葬された[1]。ヴァフタングの後継は弟のディミトリギオルギが争うことになったが、これはジョージアの支配権をめぐる激しく長い戦いの始まりとなり、最終的にジョージア王国の分裂という結果になった[2]

参考文献

  • カルトリ・ソビエト百科事典, 第4巻, 336頁, トビリシ, 1979年.
  • საქართველოს მეფეები, მ. ლორთქიფანიძე, რ. მეტრეველი, 2007 წ.

注釈

  1. ^ a b Toumanoff, Cyril. "The Fifteenth-Century Bagratids and the Institution of Collegial Sovereignty in Georgia." Traditio 7 (1949–51): 184-185
  2. ^ Suny, Ronald Grigor (1994), The Making of the Georgian Nation, p. 45. Indiana University Press, ISBN 0-253-20915-3.

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