史料に対する評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 04:15 UTC 版)
李鍾旭(朝鮮語: 이종욱、西江大学)は、「韓国の主流派歴史学界は、『三国史記』初期の記録を虚偽とした津田左右吉の影響を受けており、『三国史記』に登場する新羅の第17代の王である奈勿尼師今以前の記録を意図的に隠蔽するなど、植民史観(朝鮮語版)に陥っている」と批判している。これに対して盧泰敦(朝鮮語版)(朝鮮語: 노태돈、ソウル大学)は、「奈勿尼師今以前の記録は、神話的な部分があるなど、文字通り受け入れ難い」として、「客観的に歴史を見ることが植民史観(朝鮮語版)なのか」と反論している。 韓国では漢四郡は朝鮮半島に存在しなかったとする主張に関連して、『三国史記』初期の記録を虚偽とする学説を批判する意見があり、イ・ドギル(ハンガラム歴史文化研究所長)は、植民史観(朝鮮語版)は1945年8月15日に終結すべきだったが、『朝鮮史編修会』に所属した韓国人学者が解放後に歴史学界の権力を掌握したため、植民史観(朝鮮語版)を一掃できず、漢四郡が朝鮮半島に存在したことが定説となり、「李丙燾(朝鮮語版)は解放後、朝鮮史学界の泰斗として君臨しながら自分の二人の師匠の植民史観を朝鮮史の主流理論にした。稲葉岩吉の漢四郡の朝鮮半島存在説を朝鮮古代史の定説に定着させ、津田左右吉の『三国史記』初期記録不信論に従って古朝鮮を国家と認定せず、『三国史記』初期記録を虚偽と決めつけた」として、漢四郡の朝鮮半島存在説は、漢四郡が遼東半島に存在したことを立証する『三国史記』初期の記録を虚偽とすることで朝鮮史を1500年間短縮させた日帝の組織的陰謀であり、「現在韓国古代史学界で定説と認定している李丙燾(朝鮮語版)の理論は津田らの理論をそのまま継承したり若干の修正を加えたものに過ぎない。津田の韓国古代史観は簡単だ。南満洲鉄道会社の委嘱を受けて書いた『朝鮮歴史地理』などの著書で津田は韓半島北部には楽浪郡をはじめとする漢四郡があり、漢江以南には計78ヶの小国らがうようよしていたと叙述した」「問題は『三国史記』が漢江南に早くから新羅と百済という強力な古代国家が存在したと説明しているという点だった。『三国史記』の記録のとおりならば、任那日本府は存在できなかった。そこで津田は『三国史記』初期記録が操作されたといういわゆる『三国史記』初期記録不信論を創案し遂げた。一人で『三国史記』初期記録不信論を主張しながらも『三国史記上代部分を歴史的事実の記載とは認定しにくいということは東アジアの歴史を研究する現代の学者らの間で異論がない』(『三国史記』の新羅王本紀に対して、1919年)であたかも多くの学者の支持を受けているように強弁した。後日李丙燾(朝鮮語版)は任那日本府説は否認しながらも津田の『三国史記』不信論は若干の修正を加えて受け入れたし、その弟子らによって現在定説となった」と批判している。
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