戦いに至る経緯
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同時代のどのスカルド詩も戦いの原因については触れていない。ブレーメンのアダムによると、オーラヴ・トリグヴァソンの妻でデンマーク人のタイラがデンマークに対して戦争をするようけしかけたという。さらにスヴェン双髭王とオーロフ・シェートコヌング王が連合軍を結成したと聞いたとき、オーラヴは怒り、敵軍への攻撃を決心した。これは『ノルウェー王のサガの概説』と『ノルウェー史』も同じ内容の記述がある。タイラはスヴェン王の妹であったが、オーラヴと結婚したときスヴェンは約束の持参金を支払わなかった。怒ったオーラヴはデンマーク遠征軍を立ち上げたが、ノルウェーの全船団が集結するのを待ちきれずに出立してしまい、残りは後で合流するだろうとたった11隻で南へ進軍した。ノルウェー軍合流が期待した通りにはならない事が分かったオーラヴは、援軍を求めてヴェンドランド(ポメラニア)へと向かったがその途上でスヴェン王と連合軍の奇襲に遭った。なお<非キリスト教徒のハルドール(Halldórr the Unchristian)>の詩はこれとは逆で、オーラヴ王は「南から」北へ向かう途中に戦いとなったという。 オッド・スノッラソンはタイラとの結婚によって起こった問題について、次のような詳細な記述を残している。それによると、タイラはヴェンドの王ブリスラヴと婚約、結婚し、ブリスラヴは多大な持参金を受け取った。だがこの結婚はタイラの望んだものではなく、結婚後タイラは自ら一切の食事を絶っため、ブリスラヴはタイラをデンマークに送り返したという。そしてタイラは兄スヴェンへの意趣返しとしてオーラブ・トリグヴァソンと結婚した。一方、オーラヴを憎み敵視していたスヴェンの妻シグリーズは、スヴェンにオーラヴと戦争をするようけしかけた。スヴェンはヨムスヴァイキングの首領シグヴァルディとスウェーデンのオーロフ王と共謀し、オーラヴ・トリグヴァソンを罠にかけることを決めた。タイラに叱咤されたオーラヴ・トリグヴァソンはヴェンド王ブリスラヴから持参金を取り立てるためヴェンドランドに向かったが、その途中で奇襲の計画があることを耳にした。このときオーラヴの味方を装ってヴェンド遠征に同行していたシグヴァルディは、オーラヴに「そんな噂は嘘だ」と告げた。シグヴァルディを信じたオーラヴは船団の多くを国に帰してしまった(さらに言えば、オーラヴの手下たちは皆あまり我慢強い質では無かった)。このため、スヴォルドで奇襲に遭ったときオーラヴの船団はごくわずかであったという。 『ファグルスキンナ』と『ヘイムスクリングラ』の内容も概ね上記オッドの記述に沿ったものであるが、より簡素化し一部変更を加えている。『ヘイムスクリングラ』では、シグヴァルディはオーラヴおよびヴェンド船団と共にヴェンドランドを出立し、オーラヴを奇襲に遭わせている。これら記述が正確なものであろうとなかろうと、スヴェンとオーロフそしてエイリークにはオーラヴを襲う十分な理由があった。オーラヴはノルウェー王即位後に、それまで長らくデンマークの領地であったノルウェー南部ヴィケンを手にしている。またオーラヴとスヴェンは過去共にイングランド遠征に向かったが、スヴェンがまだ戦陣を張っているにも拘らず、オーラヴは単独で一方的にイングランドと和平を結んだ。なおスヴェンとオーロフとは友好関係にあり姻戚関係もあったため、もともと同盟関係にあった。こうしたデンマーク・スウェーデンの動向に加え、父ハーコンをオーラヴに殺されたヤールのエイリークも父の無念を晴らそうとしていた。 サガやスカルド詩の記述には互いに相違点もあるが、歴史家たちはもっともあり得そうな出来事の経緯を再構築しようと模索してきた。それによると、オーラヴ・トリグヴァソンがヴェンドランドからノルウェーへと出立した際に奇襲にあったとする出来事は実際にあった可能性が高い。王のサガはタイラとその結婚の重要性を高めようとしており、オーラヴが持参金を取り立てようとしたのもおそらくは本当だろうが、オーラヴがヴェンドランドへ向かったのは持参金回収のためではなく、戦いを予期しヴェンドランドに援軍を求め失敗したとする方がより可能性がある。シグヴァルディの行動は不可解ではあるが、実際サガだけでなくスカルド詩の中でもシグヴァルディはオーラヴを裏切っている。
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戦いに至る経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 04:52 UTC 版)
建州女直を統一して、1616年にハンに即位し後金を起こしたヌルハチは、1618年に明に対して「七大恨」を掲げて宣戦を布告し、遼東における明の拠点である撫順を攻撃した。明はこれに対して、楊鎬を遼東経略に任命し、女直討伐にあたらせた。 しかし、明軍は予算不足のため兵の結集に手間取ったので、楊鎬は兵力を補うため後金に北隣する海西女直のイェヘ部と、南隣する朝鮮にも助兵を要請した。イェヘは女直の統一を進めるヌルハチと対立していたため、これに応じた。一方の朝鮮では、国王の光海君は出兵を渋ったものの、先の文禄・慶長の役において宗主国である明に救援してもらった恩義(「再造の恩」)があったために断ることができず、都元帥の姜弘立と副元帥の金景瑞に1万の兵力を授けて鴨緑江を越えさせた。 1619年、10万の明軍は全軍を4つの軍団に分け、四路に分かれてヌルハチの本拠地ヘトゥアラ(Hetu ala、赫図阿拉、興京)を包み込むように進撃を開始した。北路は開原総兵官の馬林がイェヘの援軍とともに開原から、西路は山海関総兵官の杜松が瀋陽から出発し、両軍はヘトゥアラと撫順の中間にあるサルフで合流してヘトゥアラを目指す計画とした。また南路からは遼東総兵官の李如柏が遼陽から清河を越え、東南路からは遼陽総兵官の劉綎が朝鮮軍を帯同して丹東付近から北上して、それぞれ西南と東南から直接ヘトゥアラに迫った。総司令官の楊鎬は予備兵力とともに後方の瀋陽で待機し、全軍の総指揮を取った。
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