戦いに至る経緯とは? わかりやすく解説

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戦いに至る経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/14 06:16 UTC 版)

スヴォルドの海戦」の記事における「戦いに至る経緯」の解説

同時代のどのスカルド詩戦いの原因については触れていない。ブレーメンのアダムによると、オーラヴ・トリグヴァソンの妻でデンマーク人タイラデンマークに対して戦争をするようけしかけたという。さらにスヴェン双髭王とオーロフ・シェートコヌング王が連合軍結成した聞いたとき、オーラヴ怒り敵軍への攻撃決心した。これは『ノルウェー王サガ概説』と『ノルウェー史』も同じ内容記述がある。タイラスヴェン王の妹であったが、オーラヴ結婚したときスヴェン約束持参金支払わなかった。怒ったオーラヴデンマーク遠征軍立ち上げたが、ノルウェーの全船団集結するのを待ちきれずに出立してしまい、残り後で合流するだろうとたった11隻で南へ進軍したノルウェー軍合流期待した通りにはならない事が分かったオーラヴは、援軍求めてヴェンドランド(ポメラニア)へと向かったがその途上スヴェン王と連合軍奇襲遭った。なお<非キリスト教徒ハルドール(Halldórr the Unchristian)>の詩はこれとは逆で、オーラヴ王は「南から」北へ向かう途中戦いとなったという。 オッド・スノッラソンはタイラとの結婚によって起こった問題について、次のような詳細な記述残している。それによると、タイラヴェンドの王ブリスラヴ婚約結婚しブリスラヴ多大な持参金受け取った。だがこの結婚タイラ望んだものではなく結婚タイラは自ら一切食事絶っため、ブリスラヴタイラデンマーク送り返したという。そしてタイラは兄スヴェンへの意趣返しとしてオーラブ・トリグヴァソン結婚した一方オーラヴ憎み敵視していたスヴェンの妻シグリーズは、スヴェンオーラヴ戦争をするようけしかけたスヴェンヨムスヴァイキング首領シグヴァルディスウェーデンオーロフ王と共謀しオーラヴ・トリグヴァソン罠にかけることを決めたタイラ叱咤されたオーラヴ・トリグヴァソンヴェンドブリスラヴから持参金取り立てるためヴェンドランドに向かったが、その途中で奇襲計画があることを耳にした。このときオーラヴ味方装ってヴェンド遠征同行していたシグヴァルディは、オーラヴに「そんな噂は嘘だ」と告げたシグヴァルディ信じたオーラヴ船団多くを国に帰してしまった(さらに言えばオーラヴの手下たちは皆あまり我慢強い質では無かった)。このため、スヴォルドで奇襲遭ったときオーラヴ船団ごくわずかであったという。 『ファグルスキンナ』と『ヘイムスクリングラ』内容概ね上記オッド記述沿ったのであるが、より簡素化し一部変更加えている。『ヘイムスクリングラ』では、シグヴァルディオーラヴおよびヴェンド船団と共にヴェンドランドを出立しオーラヴ奇襲に遭わせている。これら記述正確なものであろうとなかろうとスヴェンオーロフそしてエイリークにはオーラヴを襲う十分な理由があった。オーラヴノルウェー王即位後に、それまで長らくデンマーク領地であったノルウェー南部ヴィケンを手にしている。またオーラヴスヴェン過去共にイングランド遠征向かったが、スヴェンがまだ戦陣張っているにも拘らずオーラヴ単独一方的にイングランド和平結んだ。なおスヴェンオーロフとは友好関係にあり姻戚関係もあったため、もともと同盟関係にあったこうしたデンマーク・スウェーデンの動向加え、父ハーコンオーラヴ殺されヤールエイリークも父の無念晴らそうとしていた。 サガスカルド詩記述には互いに相違点もあるが、歴史家たちはもっともあり得そうな出来事経緯再構築しようと模索してきた。それによると、オーラヴ・トリグヴァソンがヴェンドランドからノルウェーへ出立した際に奇襲にあったとする出来事実際にあった可能性が高い。王のサガタイラとその結婚重要性高めようとしており、オーラヴ持参金取り立てようとしたのもおそらくは本当だろうが、オーラヴがヴェンドランドへ向かったのは持参金回収のためではなく戦い予期しヴェンドランドに援軍求め失敗したとする方がより可能性がある。シグヴァルディ行動不可解ではあるが、実際サガだけでなくスカルド詩中でもシグヴァルディオーラヴ裏切っている。

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戦いに至る経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 04:52 UTC 版)

サルフの戦い」の記事における「戦いに至る経緯」の解説

建州女直統一して1616年ハン即位し後金起こしたヌルハチは、1618年明に対して七大恨」を掲げて宣戦布告し遼東における明の拠点である撫順攻撃した。明はこれに対して楊鎬遼東経略任命し女直討伐にあたらせた。 しかし、明軍予算不足のため兵の結集手間取ったので、楊鎬兵力を補うため後金に北隣する海西女直イェヘ部と、南隣する朝鮮にも助兵を要請したイェヘ女直統一進めヌルハチ対立していたため、これに応じた一方朝鮮では、国王光海君出兵渋ったものの、先の文禄・慶長の役において宗主国である明に救援してもらった恩義(「再造の恩」)があったために断ることができず、都元帥姜弘立と副元帥の金景瑞1万兵力授けて鴨緑江越えさせた。 1619年10万明軍全軍4つ軍団分け、四路に分かれてヌルハチ本拠地ヘトゥアラHetu ala赫図阿拉興京)を包み込むように進撃開始した。北路は開原総兵官の馬イェヘ援軍とともに開原から、西路山海関総兵官の杜松瀋陽から出発し両軍ヘトゥアラ撫順中間にあるサルフで合流してヘトゥアラ目指す計画とした。また南路からは遼東総兵官の李如柏遼陽から清河越え東南路からは遼陽総兵官の劉綎朝鮮軍帯同して丹東付近から北上してそれぞれ西南東南から直接ヘトゥアラ迫った総司令官楊鎬予備兵とともに後方瀋陽待機し全軍総指揮取った

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