戦いと即位
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1658年2月、アウラングゼーブとムラード・バフシュの連合軍は父帝シャー・ジャハーンの派遣した軍勢を破った。 同年4月15日、アウラングゼーブとムラード・バフシュの連合軍はダーラー・シコーの軍とウッジャイン近郊のナルマダー川を挟んで戦闘を行った(ダルマートプルの戦い)。戦闘は最初の方はジャスワント・シングの奮闘により、ダーラー・シコー軍の方が優勢だったが、ムラード・バフシュの勇猛さに怯えたカーシム・ハーンが逃げ出すこととなり、ジャスワント・シングも大勢の部下が死亡したことで撤退せざるを得なかった。 ダーラー・シコーはこれに怒り狂い、激しく激怒した彼はミール・ジュムラーが兵力や大砲、軍資金を提供したとして、その息子ムハンマド・アミール・ハーンを殺してやりたいとまで言った。だが、シャー・ジャハーンがなだめようとしたため、これは実行されなかった。 1658年6月8日、アウラングゼーブとムラード・バフシュの連合軍は、ダーラー・シコーの軍勢とアーグラの近郊サムーガル平原で激突した(サムーガルの戦い)。この戦いはダーラー・シコーの有利にあったが、ダーラー・シコーの軍で裏切りが起き、そのために軍は壊走してしまった。 その後、アウラングゼーブはアーグラの貴族らを味方につけ、ダーラー・シコーの長男スライマーン・シコーについていた武将ジャイ・シングに帰属を求める手紙を送った。20日、アウラングゼーブはシャー・ジャハーンに会いに行くという口実のもと、長男スルターンをアーグラへ送り、シャー・ジャハーンの身柄を拘束させた。彼自ら会いにいかなかったのは、姉のジャハーナーラー・ベーグムがアウラングゼーブに対して陰謀を企てていたからだ、とベルニエは語っている。のち、22日にアウラングゼーブの任命した城塞司令官のイティバール・ハーンはシャー・ジャハーンをジャハーナーラー・ベーグムといった女性らとともにアーグラ城へと幽閉し、厳重な見張りをつけた。 7月7日夜、アウラングゼーブは弟のムラード・バフシュを騙し、酔って寝ているところを捕えた。アウラングゼーブの周到な買収工作により、翌朝までにムラード・バフシュの軍勢は簡単に乗っ取られた。アウラングゼーブはムラード・バフシュをそのままデリーのサリームガル城へ、ついでグワーリヤルへと送った。 同月7月31日、アウラングゼーブはデリーのデリー城で即位式を挙げ、「アーラムギール」つまり「世界を奪った者」の称号を名乗り、帝国の皇帝となった。アーラムギールの称号を名乗った理由には、父の王号シャー・ジャハーンの意味が「世界の皇帝」であったからだと考えられる。
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