戦いと即位とは? わかりやすく解説

戦いと即位

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 07:02 UTC 版)

アウラングゼーブ」の記事における「戦いと即位」の解説

1658年2月アウラングゼーブムラード・バフシュ連合軍父帝シャー・ジャハーン派遣した軍勢破った同年4月15日アウラングゼーブムラード・バフシュ連合軍ダーラー・シコーの軍とウッジャイン近郊ナルマダー川挟んで戦闘行った(ダルマートプルの戦い)。戦闘最初の方はジャスワント・シング奮闘により、ダーラー・シコー軍の方が優勢だったが、ムラード・バフシュ勇猛さ怯えたカーシム・ハーンが逃げ出すこととなり、ジャスワント・シング大勢部下死亡したことで撤退せざるを得なかった。 ダーラー・シコーはこれに怒り狂い激しく激怒した彼はミール・ジュムラー兵力大砲軍資金提供したとして、その息子ムハンマド・アミール・ハーンを殺してやりたいとまで言った。だが、シャー・ジャハーンなだめようしたため、これは実行されなかった。 1658年6月8日アウラングゼーブムラード・バフシュ連合軍は、ダーラー・シコー軍勢アーグラ近郊サムーガル平原激突した(サムーガルの戦い)。この戦いダーラー・シコー有利にあったが、ダーラー・シコーの軍で裏切り起き、そのために軍は壊走してしまった。 その後アウラングゼーブアーグラ貴族らを味方につけ、ダーラー・シコー長男スライマーン・シコーについていた武将ジャイ・シング帰属求め手紙送った20日アウラングゼーブシャー・ジャハーン会いに行くという口実のもと、長男スルターンアーグラ送りシャー・ジャハーン身柄拘束させた。彼自ら会いにいかなかったのは、姉のジャハーナーラー・ベーグムアウラングゼーブに対して陰謀企てていたからだ、とベルニエ語っている。のち、22日アウラングゼーブ任命した城塞司令官のイティバール・ハーンはシャー・ジャハーンジャハーナーラー・ベーグムといった女性とともにアーグラ城へと幽閉し厳重な見張りをつけた。 7月7日夜、アウラングゼーブは弟のムラード・バフシュ騙し酔って寝ているところを捕えた。アウラングゼーブ周到な買収工作により、翌朝までにムラード・バフシュ軍勢簡単に乗っ取られた。アウラングゼーブムラード・バフシュそのままデリーサリームガル城へ、ついでグワーリヤルへと送った同月7月31日アウラングゼーブデリーデリー城即位式挙げ、「アーラムギール」つまり「世界奪った者」の称号名乗り帝国皇帝となったアーラムギール称号名乗った理由には、父の王号シャー・ジャハーンの意味が「世界皇帝であったからだと考えられる

※この「戦いと即位」の解説は、「アウラングゼーブ」の解説の一部です。
「戦いと即位」を含む「アウラングゼーブ」の記事については、「アウラングゼーブ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「戦いと即位」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「戦いと即位」の関連用語

戦いと即位のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



戦いと即位のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのアウラングゼーブ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS