戦いに至るまでの情勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 06:08 UTC 版)
「備中高松城の戦い」の記事における「戦いに至るまでの情勢」の解説
戦国時代の備中は守護の細川氏が衰退した後、国人領主が割拠する状態にあったが、なかでも台頭していたのは三村氏であった。三村家親は、出雲尼子氏に代わって西国の覇者となった安芸毛利氏に接近し勢力を西備前、西美作に広げたものの、備前浦上氏の傘下の宇喜多直家により家親が暗殺され、続く備前の明善寺合戦において三村氏は敗退、その勢力は衰えた。のち直家と結んだ毛利氏により三村氏は滅ぼされ(備中兵乱)、その傘下であった城主の多くは毛利氏を頼ったが、その一人が清水宗治である。 一方で畿内においては織田信長が上洛を果たし、反対勢力(信長包囲網)の一部を滅ぼし、将軍足利義昭を追放し(室町幕府の滅亡)、天下統一事業をおし進めていた。毛利氏と信長とは、毛利元就の代においては友好的な関係であったが、その後継の毛利輝元は義昭を庇護し(鞆幕府)、さらに最大の反信長勢力である石山本願寺と同盟し、信長への敵対の態度を強めていった。信長にとって石山本願寺を滅ぼすためにはその背後の毛利氏を屈服させる必要があったため、1578年、家臣の羽柴秀吉を総大将とする中国路への侵攻戦(中国攻め)を開始した。 秀吉はまず播磨に進出、黒田孝高の居城であった姫路城を拠点に小寺氏・置塩赤松氏・龍野赤松氏を服従させ、反抗する佐用赤松氏を滅ぼし、支配を固めた。しかし、石山本願寺・毛利氏に呼応して、信長に同盟したはずの摂津荒木村重が反乱を起こし(有岡城の戦い)、播磨においても小寺氏、別所氏が反旗を翻すなど、秀吉の中国攻めは当初から困難が多かった。別所氏を滅ぼした三木合戦においては腹心の竹中重治が陣没し、その他多くの将兵を失い、また上月城の戦いでは尼子勝久ら尼子氏の残党軍を失った。播磨を漸く再び平定した秀吉は但馬、因幡に進出し、山名豊国らを降参させ、山名氏の反織田氏勢力と結んだ毛利氏の吉川経家を鳥取城の戦いにおいて破り、弟の秀長や宮部継潤に命じ山陰道への侵攻を進めさせた。 宇喜多直家は当初は毛利氏の傘下として行動し、織田寄りであった主君の浦上宗景を追放して下剋上を果たしていたが、織田氏と秀吉の力を知ると毛利氏を見限り、秀吉に降参を申し入れた。直家は天正9年(1581年)に病没し、幼少であった子の宇喜多秀家が跡を継ぎ、そして秀吉の猶子になった事で、備前もまた秀吉の傘下に収まった。備中高松城の戦いはこのように秀吉(織田氏)が優位を築いた状況において勃発したものである。
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