戦いの余波
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フランス軍退却後、イングランド兵は身代金を取るために敗残兵のチェックを行った。その際、重傷の兵士はミゼリコルデ(慈悲の短剣)によって止めを刺された。その後、イングランド軍は港町カレーを包囲し占領したが、ペストの流行などの要因により一時休戦協定を結び、足踏みを余儀なくされる。 しかし、この戦いでロングボウ部隊を利用した戦術を用いて勝利したイングランド軍は、フランス軍のクロスボウ部隊および重騎兵部隊を用いた戦術に対して優位に立ち、以後の戦いでも同様の戦術で勝利を収めていくこととなる。
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戦いの余波
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「アザーズの戦い (1030年)」の記事における「戦いの余波」の解説
この戦役におけるビザンツ軍の敗北は、およそ40年後に起こったマラズギルトの戦いの時とは異なり、まだ十分な国力を有していたビザンツ帝国にとって長期に及ぶ後退にはつながらなかった。一方のミルダース朝、ファーティマ朝、そしてバグダードを本拠地とするアッバース朝は、アラブ側の勝利を活用することができなかった。ロマノス3世はコンスタンティノープルへ帰還したものの、アンティオキアにカテパノとドメスティコス・トーン・スコローン(英語版)(スコライ軍団司令長官)としてそれぞれニケタス・ミステイアとプロトヴェスティアリオス(英語版)(宦官の官位一つ)のシュメオンを残し、より涼しい気候で水の入手が容易な年の後半に遠征を再度実行するように命じた。一方でファーティマ朝はビザンツ帝国の失敗に付け込んでアヌーシュタキーン・アッ=ディズバリーがジャッラーフ家とカルブ族(英語版)の協力者を攻撃したものの、10月にボスラで発生した戦いで敗北するという結果に終わった。 ロマノス3世の失敗は、アザーズでのビザンツ軍への勝利から引き返してきた800人のアラブ人に対するテルークの長官であるゲオルギオス・マニアケス(英語版)の勝利によって部分的に緩和された。勝利の余勢を駆ったアラブ人はマニアケスに自身の領地を明け渡すように要求した。マニアケスは最初は応じるように見せ掛けてアラブ人に食糧や水を送ったが、その後攻撃を加えてアラブ人を圧倒した。マニアケスの成功の後、アザーズの戦いの余波でビザンツ帝国の支配に対して立ち上がったアラブ人の国境地帯の領主と、マラキヤ(英語版)(タルトゥースとバニヤースの間に位置する海沿いの町)の国境の砦の占領を目指すファーティマ朝軍に対するビザンツ軍の抵抗が続いた。ニケタスとシュメオンはこれらの攻撃をうまく退け、12月には短い包囲戦の後にアザーズを含むいくつかの要塞を次々に占領し、ビザンツ軍が数ヶ月前に敗北したトゥバルは灰燼に帰した。続く2年間にビザンツ軍は丘陵地帯に位置する現地の部族の砦を組織的に攻略して支配下に置き、シリアにおけるビザンツ帝国の地位を回復させた。東方でのビザンツ帝国の復活は、1031年にマニアケスがエデッサを占領した時点で最高潮に達した。 一方のミルダース朝ではナスルがスィマールを本人がアレッポを離れていた間に追放し、その後単独でアレッポを支配した。しかしながら、この行動は結果的にスィマール本人とキラーブ族のスィマールの支持者による脅威を招くことになり、ナスルはビザンツ帝国に許しと保護を求める必要に迫られた。さらに、ビザンツ軍の敗北後の(恐らく)1031年には、ナスルの競合勢力であるハッサーン・ブン・ムファッリジュが率いるタイイ族と、ラーフィ・ブン・アビー・アッ=ライル(英語版)が率いるカルブ族が、ロマノス3世の招きに応じてアンティオキアの南東に位置するルージュ平原に20,000人に及ぶ部族民を引き連れて移住してきた。ナスルはこれによってさらなる脅威を受けることになった。ナスルは強力な隣人であるビザンツ帝国の敵意を取り除くために、1031年4月に息子のアムルをコンスタンティノープルへ派遣し、ビザンツ帝国に対して従属国と臣下の立場に戻る条約の締結を求めた。これに応じて結ばれた条約では、ナスルはビザンツ帝国へ年間500,000ディルハムの貢納を求められ、一方で侵略を受けた場合にはビザンツ帝国がナスルを支援することを義務付けていた。この合意は、1032年にニケタスとナスルによるアラー山(英語版)で発生したドゥルーズ派の反乱に対する共同での鎮圧につながった。ミルダース朝の兄弟間の紛争は、ナスルがアレッポからシリアを統治し、スィマールがラフバ(英語版)からメソポタミア方面を統治する形でキラーブ族の指導者がアミール政権を分割する調停を成立させたことで収束することになった。 その後、1038年にアヌーシュタキーンがハマーの近郊で起こった戦いでナスルを破って戦死させ、続いてアレッポをも占領したものの、スィマールが後にミルダース朝によるアレッポの支配を回復した。ミルダース朝は時折中断を挟みながらも1080年までアレッポの支配を維持した。一方でロマノス3世は1032年に再び東方への遠征を実行に移したが、進軍中に首都で陰謀事件が発生したことで中止を余儀なくされ、さらには皇后のゾエとパフラゴニア家の一派がロマノス3世支持派の勢力を駆逐した。その結果、権威の低下と孤立化に陥ったロマノス3世は1034年4月11日にパフラゴニア家のミカエルによって浴場で溺死させられ、ミカエルがミカエル4世(在位:1034年 - 1041年)として帝位につくことになった。
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