戦いの前・攻撃防御の準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/30 09:51 UTC 版)
「ダンツィヒのポーランド郵便局での攻防」の記事における「戦いの前・攻撃防御の準備」の解説
自由都市ダンツィヒのポーランド郵便局(Poczta Polska)は、1919年にヴェルサイユ条約の元に作成され、その建物はポーランドの資産で治外法権であるとみなされていた。 ダンツィヒのポーランド郵便局はいくつかの建物からなっていた。1930年の時点では、旧市街にあるヘヴェリウシュ・スクエア(Heweliusz Square)のグダニスク1のビルがポーランド郵便局の中心となる建物で、そこにはポーランドへ直通の電話線があった。1939年時点で、そこには100人以上の人が働いていた。ポーランド郵便局の一部の職員は自衛・セキュリティ部門に属しており、ほとんどがポーランド・ライフル協会(Związek Strzelecki)のメンバーであった。エドムント・ハラシュキェヴィチ(Edmund Charaszkiewicz)の証言では、ポーランド郵便局は1935年からポーランドの諜報組織ジグムント(Group Zygmunt)の重要な部門となっていた。 ポーランドとドイツの間の緊張状態が大きくなるにつれ、1939年4月にポーランドの最高司令部は工兵部隊を配置し、予備海軍中尉コンラット・グデルスキ(Konrad Guderski)をバルト海沿岸へ送った。アルフォンス・フリスィコフスキ(Alfons Flisykowski)と他の者にとって、彼の任命はダンツィヒのポーランド郵便局における公式で志願制の警備職員を編成する助けになり、戦闘時に備えることができた。加えて、職員を訓練し、建物周りの防備を備えた。建物近くの樹木を取り除き、玄関を強化した。8月中旬には追加の10人の職員が グディニャ(Gdynia)とブィドゴシュチュ(Bydgoszcz)のポーランド郵便局から派遣されてきた。 ポーランド郵便局の建物は9月1日の時点で57人の人間がいた。これは、コンラット・グデルスキ(唯一市民でなかった人間)、42人の地元で雇用したポーランド職員、グディニャとブィドゴシュチュから来た10人、ビルの管理人とその家族(妻と10歳の娘エルヴィナも含んでおり、このビルに住んでいた)であった。ポーランド人の職員は武器を隠しており、そのほとんどが拳銃で、3丁の軽機関銃といくつかの手榴弾もあった。ポーランドの防御計画では、ドイツ軍から建物を6時間守ることを考えており、その後、ポモージェ軍(Armia Pome)からその地域の防御支援のための部隊が送られる予定であった。 ドイツの攻撃計画は1939年7月に立てられた。建物の2つの方向から攻撃をし、陽動攻撃が正面玄関から行われ、主攻撃は隣接する事務所から側面に壁越しにおこなう、というものだった。
※この「戦いの前・攻撃防御の準備」の解説は、「ダンツィヒのポーランド郵便局での攻防」の解説の一部です。
「戦いの前・攻撃防御の準備」を含む「ダンツィヒのポーランド郵便局での攻防」の記事については、「ダンツィヒのポーランド郵便局での攻防」の概要を参照ください。
- 戦いの前・攻撃防御の準備のページへのリンク