戦いの前兆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 06:59 UTC 版)
ディーウはインドからの全ての香辛料交易の前哨としての重要な役割を担っていた。インドでの香辛料交易の構築を試みようとするポルトガルは、従来の強固に守られた利益の多い交易網を打破する必要があった。ディーウの戦いはこうしたポルトガルの方針を強いる目的に加えて、アミール・フサイン・クルディーによって息子を殺されたフランシスコ・デ・アルメイダの個人的な報復として行われたものでもある。彼は息子の死を知った際にすごく激怒してこのように言ったとされている。「ひよこを食べたのならば雄鶏(父親)も食べるか、ひよこを食べた代償を払わなければならない。」と。 アフォンソ・デ・アルブケルケが1508年の12月6日にポルトガル本国からアルブケルケを次の副王にするというポルトガル王からの命令を伴って到着したので、フランシスコ・デ・アルメイダは慌ててマムルーク朝の艦隊を追いかけた。彼は国王からの命令を知らされた後で、自分の個人的報復のためにアフォンソ・デ・アルブケルケを監禁し、戦争の準備を進めた。 自分の街が危機に直面していることを認識し、マリーク・アヤースは防衛準備をするとともに、副王に対して、自らがポルトガルの捕虜を持っていることと副王の息子がいかに勇敢に戦ったかということを示すと共に、いかにポルトガル捕虜兵をよく扱っていたかを付け加えて怒りをなだめるように手紙を出した。副王はマリーク・アヤース(ポルトガル語ではMeliqueazと呼ばれる)に対して尊重はするものの、威嚇するような文面ですべての兵力を結集し、戦闘を準備すると共に、ディーウの街を破壊するであろうという復讐の意向を述べた。 マリーク・アヤースは自分の街であるディーウを破壊されることへの恐怖と、フサイン・クルディーがディーウを包囲しているという板挟みの状況下でポルトガル軍に直面していくことになる。
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