クーデターの試み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 19:41 UTC 版)
「アルダ・ムリッシ」の記事における「クーデターの試み」の解説
アルダ・ムリッシはエサルハドンに忠誠を誓うことを父センナケリブから強要されたが、繰り返しセンナケリブに対して自分を再び王位継承者に戻すよう訴えようとした。センナケリブはアルダ・ムリッシが人気を増していること、そしてエサルハドンの身に危険が迫っているに気付き、彼を遠く西方の属州に送った。このエサルハドンの亡命によってアルダ・ムリッシの人気は頂点に達したが、エサルハドンの脱出に際して行動を起こす力が無かったため、彼は難しい決断を迫られた。この機会を逸しないために、アルダ・ムリッシは速やかに行動し王位を奪取するべきであると決断した。 アルダ・ムリッシは別の弟ナブー・シャル・ウツル(英語版)(シャレゼル〈Sharezer〉とも呼ばれる)と「反乱の条約(treaty of rebellion)」を結び、前681年10月20日にニネヴェ(当時のアッシリアの首都)のある神殿でセンナケリブを襲撃し殺害した。計画が成功したにもかかわらず、アルダ・ムリッシは王位を奪うことができなかった。この王殺しはアルダ・ムリッシ自身の支持者たちの間に彼への怒りを引き起こし、戴冠式の挙行が遅れることとなった。この間にエサルハドンが軍を起こした。アルダ・ムリッシとナブー・シャル・ウツルが立ち上げた軍は帝国西部のハニガルバトでエサルハドンと会敵した。ここで、アルダ・ムリッシらの兵士の大半が彼を見捨ててエサルハドンの下に走り、エサルハドンは抵抗を受けることなくニネヴェに進軍した。 アルダ・ムリッシとナブー・シャル・ウツルは北方、恐らくはまず山岳地帯の王国シュプリア(英語版)へと逃亡し、さらに古くからのアッシリアの敵国であるウラルトゥ王国に移った。エサルハドンはセンナケリブの死の6週間後に王位を得ることに成功した。彼はアルダ・ムリッシとナブー・シャル・ウツルの家族を含む彼らの与党と手の届くところにいる政敵の全てを処刑した。アルダ・ムリッシとナブー・シャル・ウツルは亡命先のウラルトゥで数年間生き残っていた。いくつかの文書によって彼らが前673年までウラルトゥで生きており自由な地位にあったことが示されている。エサルハドンはこの年に北方遠征を実施しシュプリアを攻撃したが、恐らく遠征の主目的であったアルダ・ムリッシたちを捕らえることはできなかった。
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