北方遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 17:17 UTC 版)
1840年に大佐に昇進し、フアン・ラバジェ(スペイン語版)の侵入(1840年遠征)に対するブエノスアイレスの防衛に参加した。アンヘル・パチェコ(スペイン語版)将軍の命令で追討軍に加わり、ケブラチョ・エラドの戦い(スペイン語版)やサン・カラの戦い(スペイン語版)に参加した。 マヌエル・オリベ(スペイン語版)将軍はカタマルカを占領するために1200人の兵士を連れてマーザを派遣した。マーザはマリアーノ・アチャ(スペイン語版)とのマシガスタの戦い(batalla de Machigasta)に参加し、リーダーのフアン・エウセビオ・バルボア(スペイン語版)をカタマルカの知事に任命した。そこでマーザは数人の将校を撃ったという。 その後はラ・リオハ州に赴いた。マーザは途中ラバジェが戦った痕跡を発見した。ラバジェはビジャファニ(Villafañe)将軍など数十人の連邦政府将校を銃殺させた人物である。おそらくそこで、戦争はもはや死闘であると判断したのだろうとされる。ラバレにかわされ、マザはコルドバに行き、オリベと合流した。連邦歩兵の長として、連邦軍の決定的な勝利となったファマイーラの戦い(スペイン語版)に参加した。 連邦軍は北上し、メタン(Metán)にいた時、北部連合の思想的指導者マルコ・アベジャネーダ、ホセ・マリア・ビレラ(José María Vilela)大佐(サン・カラの戦いで敗れる)らが捕虜となった。アベジャネーダはブエノスアイレスに駐在していたため、マーザが略式で裁判をすることになった。彼は尋問を受け、反逆罪(北西部の自由主義者は何の関係もないフランスとの同盟のため)、3年前のアレハンドロ・エレディア(スペイン語版)暗殺の扇動及び加担、連邦軍に対する迫害と没収の罪でアベジャネーダを非難した。アベジャネーダ、ビレラら6人の将校は、のどを切り裂いて処刑された。処刑された者たちも、可能であれば連邦軍に同じことをした可能性がある。実際、ラマドリッド(Lamadrid)とラバジェは何度かそうしていた。なおマルコ・アベジャネーダの処刑された1841年10月3日は子のニコラス・アベジャネーダの4歳の誕生日であった。 それからマーザはカタマルカ州に戻り、そこでは単一の知事ホセ・キューバス(スペイン語版)がまだ抵抗していた、そしてマーザはキューバスに降伏するように促した。キューバスは折れなかったので、州都を攻撃して打ち負かした。キューバスを広場のパイクに頭を釘付けにするなど、数十人を処刑した。処刑された者の多くは銃殺ではなく虐殺に近い形で処刑され、マーザはそれを自慢したという。 その後、マーザは「アマドレスの戦闘(Combate de Amadores)」で、ホセ・キューバスの友人であり義理の兄弟であり、カタマルカの新知事であるマルセリーノ・オージェ(スペイン語版)と対峙し、辛勝した。
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