セク・ワッタラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/21 09:32 UTC 版)
コング帝国は1710年ごろから1740年までの間、セクによって統治された。コングでの支配を確立した後、セクと彼に協力する指導者らの軍は交易路を重視してその地域全体の街や居留地を占拠した。セク統治期の軍は、北はヴォルタ川の支流ブラック・ヴォルタ川(英語版)周辺地域を、南はバウレ族を支配下に治めた。南方でのコング帝国軍は、ギャアマン国(英語版)の支配をめぐり勢力を伸ばしていたアシャンティ王国と衝突し、大規模な一連の戦闘を引き起こした結果、アシャンティによるギャアマン支配という形に終わったが、コング帝国の権利も認められた。安定した支配を確立するため、セクは12人の息子をその地域の至る場所にある重要な居留地の首長に任命した。 セクが1735年に死去すると帝国は大混乱に陥った。彼の息子ケレ・モリ(Kere-Mori)は継承権を主張したが、セクの兄弟であるファマガ(Famaga)はそれを認めず、北方の居留地の大部分を支配下に入れてボボ・ジュラソ(ボボ・ディウラッソ)の外にて統治した。ケレ・モリ軍とファマガ軍は内部ではかなりの対立関係にあったが、対外的には協力していた。これは1730年の、ニジェール川へ向かうブラック・ヴォルタ川北方遠征において最も重要であった。1739年11月には、連合軍はソファラ (マリ)(英語版)の交易所を含む多くの主要都市を占領した。連合軍はバマナ帝国(英語版)のビトン・クリバリ(英語版)の部隊に押し返される前に、ニジェール川沿岸の重要都市ジェンネ・ジェノ(英語版)にまで到達した。
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