北方隊の関東平野侵入、制圧とは? わかりやすく解説

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北方隊の関東平野侵入、制圧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 22:45 UTC 版)

小田原征伐」の記事における「北方隊の関東平野侵入、制圧」の解説

内の座標示した地図 - OSM内の座標出力 - KML 表示 前後して北方隊は4月17日頃に国峯城宮崎城諸城厩橋城4月19日)、箕輪城4月24日)、白井城5月15日松山城5月22日)、その他西牧城、石倉城、新田金山城大胡城白倉城(麻場城、仁井屋城)、新堀城など上野武蔵北西部の各城を開城または攻め落とした西牧城には72歳の多米周防守長宗なる将が武蔵国から派遣されていたが、攻め手松平康国兄弟により城は陥落し、多米は城近く大岩の上切腹したと伝わる。ほとんどの各城はそれぞれ主力当主自身小田原城籠城しており、留守を預かる程度の兵や城代家臣、近隣領民などしか籠城していなかったため、戦意高かったとは言い難かった上、圧倒的な軍事力の差前にしては降伏開城もしくは敗北する外の選択肢無かった松山城では当主の上田憲定が主力率いて小田原城にいたため、城代山田直安以下、難波田憲次金子家基、木呂子友則、若林直盛ら約2千300名が松山城籠城したが、前田利家真田昌幸上杉景勝らに包囲攻撃されたために降伏開城した。降軍の3千余騎が前田軍先手加わり八王子城攻撃参加した。なお、この間石倉城で松平康国戦死している。 桐生城由良国繁小田原籠城しており、留守の城は母親妙印尼守備していたが、妙印尼が国繁嫡男の貞繁を立てて桐生城開城し、兵2千を集めて松井田城攻め加わった。これが評価され戦後妙印尼に対して常陸国牛久城5400石が与えられ由良氏存続することとなった4月末に前田利家は、降伏した大道寺政繁父子伴って小田原包囲中の秀吉の下へ参陣している。5月1日自軍帰還しているが、護衛軍勢引き連れていたとはいえこの時点で既に、上野から小田原間に、豊臣軍通行妨害となるものが少なかったことが窺える。なおこの往路大道寺政繁は自城の河越城開城勧告行っている。歴戦要害要衝である河越城の本来の守将は先に松井田城降伏した大道寺政繁であり、城は政繁の子養子)の直英(大道寺隼人)が大道寺氏留守守備部隊指揮していたが、政繁の降伏を受ける形で河越城降伏開城前田軍入城している。以降大道寺氏の軍は秀吉方の道案内務め、各城攻めにも加わっている。武蔵国平野部にある館や城は次々と開城もしくは陥落したが、奥地である秩父方面にまで豊臣軍進出した形跡乏しい。浅羽城では当主浅羽氏ら主力小田原籠城したため生まれつき隻眼の姫や家老らで守備していたが、前田・上勢に攻められ落城し、姫は堀に身を投げた以来その堀跡の池では、全て隻眼である、という伝説残っている。

※この「北方隊の関東平野侵入、制圧」の解説は、「小田原征伐」の解説の一部です。
「北方隊の関東平野侵入、制圧」を含む「小田原征伐」の記事については、「小田原征伐」の概要を参照ください。

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