北方隊の関東平野侵入、制圧
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「小田原征伐」の記事における「北方隊の関東平野侵入、制圧」の解説
節内の全座標を示した地図 - OSM節内の全座標を出力 - KML 表示 前後して北方隊は4月17日頃に国峯城、宮崎城の諸城、厩橋城(4月19日)、箕輪城(4月24日)、白井城(5月15日)松山城(5月22日)、その他西牧城、石倉城、新田金山城、大胡城、白倉城(麻場城、仁井屋城)、新堀城など上野・武蔵北西部の各城を開城または攻め落とした。西牧城には72歳の多米周防守長宗なる将が武蔵国から派遣されていたが、攻め手の松平康国兄弟により城は陥落し、多米は城近くの大岩の上で切腹したと伝わる。ほとんどの各城はそれぞれ主力や当主自身が小田原城に籠城しており、留守を預かる程度の兵や城代家臣、近隣領民などしか籠城していなかったため、戦意が高かったとは言い難かった上、圧倒的な軍事力の差を前にしては降伏開城もしくは敗北する外の選択肢が無かった。松山城では当主の上田憲定が主力を率いて小田原城にいたため、城代の山田直安以下、難波田憲次や金子家基、木呂子友則、若林直盛ら約2千300名が松山城に籠城したが、前田利家・真田昌幸・上杉景勝らに包囲攻撃されたために降伏開城した。降軍の3千余騎が前田軍の先手に加わり、八王子城攻撃に参加した。なお、この間に石倉城で松平康国が戦死している。 桐生城の由良国繁も小田原に籠城しており、留守の城は母親の妙印尼が守備していたが、妙印尼が国繁嫡男の貞繁を立てて桐生城を開城し、兵2千を集めて松井田城攻めに加わった。これが評価され、戦後に妙印尼に対して常陸国牛久城5400石が与えられ、由良氏は存続することとなった。 4月末に前田利家は、降伏した大道寺政繁父子を伴って小田原包囲中の秀吉の下へ参陣している。5月1日に自軍へ帰還しているが、護衛の軍勢を引き連れていたとはいえこの時点で既に、上野から小田原間に、豊臣軍の通行の妨害となるものが少なかったことが窺える。なおこの往路で大道寺政繁は自城の河越城に開城勧告を行っている。歴戦の要害・要衝である河越城の本来の守将は先に松井田城で降伏した大道寺政繁であり、城は政繁の子(養子)の直英(大道寺隼人)が大道寺氏の留守守備部隊を指揮していたが、政繁の降伏を受ける形で河越城も降伏開城し前田軍が入城している。以降の大道寺氏の軍は秀吉方の道案内を務め、各城攻めにも加わっている。武蔵国の平野部にある館や城は次々と開城もしくは陥落したが、奥地である秩父方面にまで豊臣軍が進出した形跡は乏しい。浅羽城では当主の浅羽氏ら主力が小田原に籠城したため、生まれつき隻眼の姫や家老らで守備していたが、前田・上杉勢に攻められて落城し、姫は堀に身を投げた。以来その堀跡の池では、魚は全て隻眼である、という伝説が残っている。
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