北方軍によるペルー解放と植民地時代の終わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/14 15:24 UTC 版)
「ペルー独立戦争」の記事における「北方軍によるペルー解放と植民地時代の終わり」の解説
独立宣言の後、ペルー国家は王党派の抵抗で身動きが取れなくなり、国家自体が不安定となっていた。Henceはペルー北部海岸でありながら共和派の下にあったものの、残りの大部分は王党派の支配下に置かれていた。副王ラ・セルナはクスコに新首都を確立しており、サンタクルス指揮下の戦線は王党派に敗北していた。共和派の勝利による戦争の終結はグラン・コロンビアの軍事介入によってのみ可能であった。サン・マルティンのペルー離脱とその後のホセ・デ・ラ・リバ・アグエロ(英語版)大統領の下での続いた軍事的敗北のあと、1823年に議会はシモン・ボリバルに救援を求める嘆願を送った。ボリバルはペルー全土を解放させることを狙い、1823年12月10日にリマに到着した。 1824年、アルト・ペルーの王党派の野営地で反乱が発生し、フニンやアヤクーチョでの一連の戦闘のきっかけとなった。ペルー軍はシモン・ボリバルの指揮下でフニンの戦い(英語版)に大勝利し、さらにシモン・ボリバルを次いだアントニオ・ホセ・デ・スクレの指揮下でアヤクーチョの戦い(英語版)にも勝利した。その後も1826年にレアル・フェリペ要塞で最後の王党派の残党が降伏するまで戦闘は続いたものの、これらの戦いの終結でラテンアメリカの植民地支配は終わりを告げた。
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