北方説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 04:49 UTC 版)
鳳山郡説と安岳郡説がある。ともに考古学上の見地から唱えられた。この両説も南方説の場合と同じく、郡治所の移動がありうることを考えれば、必ずしも対立するものではない。 黄海北道鳳山郡説 平壌から南へ50km、黄海北道鳳山郡沙里院にある唐土城を帯方郡治に比定する説(那珂通世、白鳥庫吉、榎一雄、今西竜、井上光貞、井上秀雄、鳥越憲三郎など)。楽浪郡址と同時代の瓦・塼(煉瓦)・銭などが出土しているほか、1912年に付近の古墳群からは「帯方太守 張撫夷塼」と刻まれた塼槨墓が見つかるなど考古学的な発見は多い。 黄海南道安岳郡説 平壌の南西60km、安岳郡に比定する説。付近には「元康5年(295)」銘塼のある下雲洞古墳、「太康9年(288年)」銘塼出土の柳雲里北洞があり、楽浪墓制と同じく、漢人の塼槨墓がこの地にも数多く営まれたことを窺わせる。大同江河口の入江を扼する位置にあり、中国遼東半島、山東半島のどちらにも近いという海上交通の要地でもある。 北方説の問題点として、黄海北道や黄海南道では、楽浪郡に近すぎて2つに郡を分けた意味が無いという批判がある。また北方説では「韓、帯方の南にあり……方四千里ばかり」(『魏志韓伝』)という1辺4,000里の正方形にはならず、縦長の長方形になってしまい記述に合わない。この2点を掲げて批判する南方説の支持者は日本や韓国や中国に多い。第三に、中国の歴代の史書では百済の起源について帯方郡との関係をいう場合が多く、南方説では馬韓伯済国(京畿道広州)が帯方郡(京畿道広州)の跡地に存在していたか、近隣の帯方郡(京畿道ソウル)に進出したと解釈されているが、北方説では百済の発祥の地と帯方郡が離れすぎて説明が不可能になってしまうという問題点がある。
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