帯方郡の疆域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 04:49 UTC 版)
北方説の考古学的根拠は、必ずしも帯方郡治(帯方県)の位置を確定するものではないが、帯方郡の領域が安岳郡や鳳山郡まで広がっていたとする論拠としては問題ない。最近の説では、鳳山郡・安岳郡・信川郡など載寧江流域の一帯には、他国からの流入者・亡命者などを含めた中国人社会が(帯方郡治所のあった場所が北方か南方かにかかわらず)形成されていたという見解(東潮・前掲書)が、これらの地に塼槨墓が存在する理由を合理的に説明しうるものとして注目されている。この上で、もし郡治がソウルか広州にあったと仮定した場合、帯方郡の領土はやけに細長い形になるので、岡田英弘は、帯方郡は黄海南道安岳郡から京畿道にかけての交易路に沿って、回廊状に7県がならんでいたと推定している。同様な回廊状の郡としては前漢代の玄菟郡があり、そちらは玄菟回廊ともよばれる。 帯方回廊の北端として岡田英弘は安岳郡は帯方郡の領域に含まれるが鳳山郡は含まれないとした。帯方郡の屯有県は「公孫康、屯有県以南の荒地を分けて帯方郡と為す」(『魏志韓伝』)とあるように当初は帯方郡に属していたが、『晋書地理誌』の掲げる帯方郡の7県には入ってはおらず、楽浪郡に入っている。つまり屯有県は楽浪郡と帯方郡の境にあり、はじめ帯方郡に属したが後に楽浪郡に移管している。
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