南方説とは? わかりやすく解説

南方説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 04:49 UTC 版)

帯方郡」の記事における「南方説」の解説

ソウル説と広州説がある。広州最初百済の都であり、3世紀馬韓の「伯済国」は広州にあったともされる。この二説は必ずしも対立するものではなく初期には広州にあった帯方郡ソウル遷り、その跡地百済興ったとも考えられる京畿道ソウル説 現在のソウル帯方郡治があったとする説(関野貞小田省吾白崎昭一郎坂田隆江上波夫など)。『漢書地理志』には、前漢時代楽浪郡25県の1つとして帯方県が記され、「帯、西して帯方至り海に入る」とある。この「帯」とはどの川かとなるが、同書には明らかに大同江指し示す「列」がある以上、「帯」を大同江のことと解する余地はない。最有力なのは中部西流する大河漢江であり、その河口部ソウルこそが帯方郡であったという論法になる。このような文献解釈としての説得性が南方説の強みであり、最も古典的な説でもある。 京畿道広州説 ソウル東南40kmの広州帯方郡治に比定する説(岡田英弘ソウル広州どちらかだろう〈前掲書〉)。上記ソウル説と根拠はほぼ同じで、広い意味では「ソウル近隣説」ともいえる。漢江河口から遡ると、ソウル過ぎて北上する北漢江南東に向かう南漢江分かれる。「帯、西して帯方至り海に入る」の「帯」を北漢江ではなく南漢江解すれば帯方郡治を広州考えることも可能である。広州いまでこそ目立たぬ小村であるが、百済最初王都慰礼城とはここであった古代邑城が、海からはやや離れ、少し河口を遡った小高い地に多く存在することを考えると、むしろソウルよりも相応しい場所といえる。 南方説の問題点としては、ソウル中心として風納里土城夢村土城石村洞古墳群などの発掘が行なわれたものの、めぼしい発見未だないことである。ソウル広州古学裏付け乏しく郡治があった痕跡希薄である。

※この「南方説」の解説は、「帯方郡」の解説の一部です。
「南方説」を含む「帯方郡」の記事については、「帯方郡」の概要を参照ください。

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