最後の王党派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 15:29 UTC 版)
「イスパノアメリカ独立戦争」の記事における「最後の王党派」の解説
海岸にあるベラクルス、カヤオ、チロエ(英語版)といった要塞はそれぞれ1825年と1826年まで抵抗した。その後の10年間、王党派のゲリラは活動を続け、スペインも何度かイスパノアメリカ本土の一部を再占領しようとした。1827年、ホセ・アリサバロ(英語版)大佐はベネズエラでゲリラ活動を行い、1829年にもイシドロ・バラダス(英語版)准将が正規軍を率いてメキシコを再征服しようとした(スペインによるメキシコ再征服の試み(英語版))。ピンチェイラ兄弟(英語版)はパタゴニアに移り、1832年にエプラフケン潟湖の戦い(スペイン語版)で敗れるまで王党派の犯罪者として活動した。これらの活動はいずれも政治情勢を変えるには至らなかった。 神聖同盟が1825年以降に急速に影響力を失い、1830年の七月革命でフランスのブルボン朝が倒れたことで、フェルナンド7世はヨーロッパ諸国からの支持を失ったが、スペインが軍事再占領の計画を完全に放棄したのはフェルナンド7世が1833年に死去した後のことだった。1836年にはスペイン政府が大陸アメリカの主権の放棄を宣言したほどであった。その後、19世紀の間、スペインはイスパノアメリカ諸国を1つずつ承認していった。キューバとプエルトリコのみが1898年の米西戦争までスペイン領であり続けた。
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