最後の皇后ツィタの告白
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「ルドルフ (オーストリア皇太子)」の記事における「最後の皇后ツィタの告白」の解説
事件から94年後の1983年3月11日、63年の亡命生活に終止符を打ってウィーンに戻った最後の皇后ツィタは、ルドルフの死が情死ではなく、暗殺によるものだという告白を、ウィーンの大衆向けタブロイド紙『クローネン・ツァイトゥング(英語版)』に行った。ツィタの夫である最後の皇帝カール1世は、フランツ・ヨーゼフ1世に暗殺の証拠を挙げられ、真相を解明するよう命じられたが、第一次世界大戦の勃発によりうやむやになったというのである。ツィタは次のように語ったが、真相はなおも明らかにはされていない。 事件の直後、緘口令が敷かれたのは、暗殺と知りながらも事件に政府の要人が関係しているため、政治的波及を懸念したからである。 皇太子の葬儀許可を教皇に打電したところ、教皇は拒否の返電を送った。しかし、皇帝が2回目に2千語もの暗号による電報を打電して説明すると、たちどころに許可が下りた。これは、当時のカトリックの教会法で自殺の場合葬儀を行うことは許可されていなかったため、自殺と伝えられた最初の時点では断られたが、2回目の時に自殺ではない旨を説明したためと思われる。 マイヤーリンク近く在住の家具職人が、事件の2日後に室内の片付けを命じられたときに目撃したところでは、家具がひっくり返されており、激しい争いの跡が見られ、壁にも弾痕・血痕が著しくあり、銃声は言われるように2発ではなかった。 ルドルフの遺骸を見た皇室関係者の一人は「皇太子は黒い手袋をしていました。軍服なら白い手袋のはずです。しかも、黒い手袋のなかには綿がつまっていました。ルドルフの手が利かなくなっていたようです。」と証言した。また、別の皇室関係者が「現場に駆けつけた当局者の話」として「皇太子の右手は手首からサーベルで切断されていた」と語った。
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