その後のドイツ社会への影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 14:18 UTC 版)
「ドイツ革命」の記事における「その後のドイツ社会への影響」の解説
「反ユダヤ主義#ヴァイマル共和政 (1919年 - 1933年)」を参照 ドイツ革命により帝政が打倒され、共和国が樹立されたが、ドイツを世界大戦に導き、軍国主義を積極的に支えてきた帝国時代の支配層である軍部、独占資本家、ユンカーなどは温存された。彼らの後援による極右勢力、右翼軍人らの共和国転覆の陰謀、クーデターの試みは右から共和国と政府を揺さぶり、一方、極左党派は左から社会民主党の「社会主義と労働者への裏切り」を激しく攻撃した。これら左右からの攻撃がヴァイマル共和国の政治的不安定さの一因となった。 左翼革命に反発した右派は、いわゆる匕首伝説を流布させていった。パウル・フォン・ヒンデンブルクやルーデンドルフが言明し、ヒトラーをはじめとするナチ党などは、第一次世界大戦で依然として戦争遂行の余力があったドイツを、国内の社会主義者、共産主義者、ユダヤ人とそれに支持された政府が裏切り、「勝手に」降伏した、もしくは「背後の一突き」を加えたことによりドイツを敗北へと導いたとするデマゴギーが生まれ、反ユダヤ主義が高まっていった。また、人民委員政府のエーベルトもベルリンの帰還兵を前に「いかなる敵も諸君を打ち破れなかった」としてドイツ軍不敗の神話を演説し、匕首伝説の拡大を支えた。このほか、新しいドイツ・ナショナリズムとしての「保守革命」なども展開した。ヒトラーはドイツ11月革命を「国家と民族への犯罪」として演説で繰り返し、レーテ共和国を持ち出すことは「背後からの一突き」や国際ユダヤ人陰謀論に説得力を持たせることとなった。ハプスブルク家を批判していたヒトラーは後に宮廷勢力に関わらないですむようにしてくれたことだけは革命を起こした社会民主党に感謝すると述べている。 ミュンヘンではレーテ共和国革命とそれに続く内戦は、ソ連等外国の共産党勢力に押しつけられた「恐怖支配」として住民の記憶に残った。さらにドイツ全土でも、バイエルン革命はロシアのボリシェヴィキとユダヤ人がドイツを乗っ取るという見方が広まり、中産階級向けの新聞ミュンヒナー・ノイエステ・ナハリヒテン紙は「ロシア・ボリシェヴィズム工作員」である共産党が「罪のない人々を虐殺した」とし、これは「人道と正義の法に対する罪」であると報じた。共産主義への恐怖は保守的な中産階級と農村部に浸透し、ドイツの人民の間で急進右翼が支持されるようになり、これ以降、バイエルンは反革命の巣窟となった。レーテ共和国崩壊後、40万の兵士を擁するバイエルン住民防衛軍が編成された。バイエルンでの右翼勢力の発展は、ミュンヘンでのナチス結成につながっていった。 1920年3月13日に右派クーデターカップ一揆がベルリンで発生した。これに対抗したルール地方の左派労働者が蜂起した(ルール蜂起)。ルール労働者評議会(レーテ)が結成され、一部がルール赤軍として反乱を起こしたが、3月から4月にかけてヴァイマル共和国軍によって多数の犠牲者を出して鎮圧された。
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