クーデターの背景とは? わかりやすく解説

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クーデターの背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 15:51 UTC 版)

9月12日クーデター」の記事における「クーデターの背景」の解説

軍事クーデターの発生直前トルコは、左右政治対立による政治テロ激化し、3達したインフレ率慢性化した高失業率抱え経済崩壊寸前状況であった。これに対して二大政党公正党共和人民党有効な対策取れず政局行き詰まり様相呈していた。 1970年代トルコ政局は、指導的な政党出現抑止するために導入され比例代表制により、多党乱立態となっており、二大政党公正党共和人民党の間で、イスラーム政党国民救済党トルコ民族主義政党民族主義者行動党等の少数政党キャスティングボートを握る不安定な状況となっていた。 1977年6月総選挙では、公正党共和人民党ともに単独過半数議席獲得できず、その後トルコ政局は、公正党のデミレル と共和人民党のエジェヴィトが、わずか3年間で4度政権交代繰り返す不安定な状況となった。両陣営は、政権交代の度に政府要員大幅な入れ替え行ったため、行政停滞招いた中でも極右政党である民族主義者行動党は、軍、警察等の治安部門浸透しており、同党と対立していた学生組織労働組合等の左翼勢力との間の緊張高めることになった1980年4月には、大統領コルテュルクの任期切れが迫っていたが、議会は6ヶ月間の審議にも関わらず後任選出できず、政局行き詰まり様相呈した政局混乱一方で左右過激派組織による政治テロ深刻化しつつあった。経済悪化に伴い、主要労働組合であるトルコ革命労働組合同盟(Türkiye Devrimci İşçi Sendikaları Konfederasyonu, DİSK)はゼネスト計画しており、学生労働者街頭行動活発化する一方で右翼過激派組織がこれを襲撃する事件多発した民族主義者行動党により牛耳られていた治安機関右翼過激派活動黙認しており、左翼側も警察右翼組織襲撃する暴力応酬エスカレートしていった。1978年には、クルド人分離独立唱えるクルディスタン労働者党結成されトルコ東南部テロ活動活発化させていた。 政治的暴力による犠牲者の数は、1977年に約230であったが、1978年に1,000名、1979年には1,500名にエスカレートした1977年メーデーでは、イスタンブール中心部タクスィム広場開かれた集会発砲があり35名の犠牲者出たほか、1978年には、民族主義者行動党青年組織である「灰色の狼」のメンバーが、宗教的少数派であるアレヴィー派信徒100名以上虐殺し13県に戒厳令発令されるカフラマンマラシュ事件発生した要人暗殺事件頻発し1980年5月には民族主義者行動党の副党首ギュン・サザクが、同年7月には元首相ニハト・エリム、DİSK議長のケマル・テュルクレルが暗殺された。 イスラーム政党国民救済党も、アタテュルク以来国是である世俗主義原則公然と否定するようになり、クーデター直前1980年9月6日には、コンヤシャリーア体制樹立求め大規模な集会開催した前年1979年には隣国イランイスラーム革命起きており、体制守護者自認する軍部は、宗教勢力伸張警戒していた。

※この「クーデターの背景」の解説は、「9月12日クーデター」の解説の一部です。
「クーデターの背景」を含む「9月12日クーデター」の記事については、「9月12日クーデター」の概要を参照ください。

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