クーデターの背景
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「9月12日クーデター」の記事における「クーデターの背景」の解説
軍事クーデターの発生直前のトルコは、左右の政治対立による政治テロが激化し、3桁に達したインフレ率、慢性化した高失業率を抱え、経済も崩壊寸前の状況であった。これに対して、二大政党の公正党と共和人民党は有効な対策を取れず、政局は行き詰まりの様相を呈していた。 1970年代のトルコ政局は、指導的な政党の出現を抑止するために導入された比例代表制により、多党乱立状態となっており、二大政党の公正党と共和人民党の間で、イスラーム系政党の国民救済党、トルコ民族主義政党の民族主義者行動党等の少数政党がキャスティングボートを握る不安定な状況となっていた。 1977年6月の総選挙では、公正党、共和人民党ともに単独過半数の議席を獲得できず、その後のトルコ政局は、公正党のデミレル と共和人民党のエジェヴィトが、わずか3年間で4度の政権交代を繰り返す不安定な状況となった。両陣営は、政権交代の度に政府要員の大幅な入れ替えを行ったため、行政の停滞を招いた。中でも極右政党である民族主義者行動党は、軍、警察等の治安部門に浸透しており、同党と対立していた学生組織、労働組合等の左翼勢力との間の緊張を高めることになった。 1980年4月には、大統領コルテュルクの任期切れが迫っていたが、議会は6ヶ月間の審議にも関わらず後任を選出できず、政局は行き詰まりの様相を呈した。 政局の混乱の一方で、左右の過激派組織による政治テロも深刻化しつつあった。経済悪化に伴い、主要労働組合であるトルコ革命的労働組合同盟(Türkiye Devrimci İşçi Sendikaları Konfederasyonu, DİSK)はゼネストを計画しており、学生、労働者の街頭行動が活発化する一方で、右翼過激派組織がこれを襲撃する事件が多発した。民族主義者行動党により牛耳られていた治安機関は右翼過激派の活動を黙認しており、左翼側も警察や右翼組織を襲撃する暴力の応酬がエスカレートしていった。1978年には、クルド人の分離独立を唱えるクルディスタン労働者党が結成され、トルコ東南部でテロ活動を活発化させていた。 政治的暴力による犠牲者の数は、1977年に約230名であったが、1978年に1,000名、1979年には1,500名にエスカレートした。1977年のメーデーでは、イスタンブール中心部のタクスィム広場で開かれた集会に発砲があり35名の犠牲者が出たほか、1978年には、民族主義者行動党の青年組織である「灰色の狼」のメンバーが、宗教的少数派であるアレヴィー派信徒を100名以上虐殺し、13県に戒厳令が発令されるカフラマンマラシュ事件が発生した。 要人の暗殺事件も頻発し、1980年5月には民族主義者行動党の副党首ギュン・サザクが、同年7月には元首相のニハト・エリム、DİSK元議長のケマル・テュルクレルが暗殺された。 イスラーム系政党の国民救済党も、アタテュルク以来の国是である世俗主義原則を公然と否定するようになり、クーデター直前の1980年9月6日には、コンヤでシャリーア体制の樹立を求める大規模な集会を開催した。前年の1979年には隣国イランでイスラーム革命が起きており、体制の守護者を自認する軍部は、宗教勢力の伸張を警戒していた。
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