反政府活動の拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 08:58 UTC 版)
「チャド・リビア紛争」の記事における「反政府活動の拡大」の解説
1975年4月13日に発生したクーデター(英語版)にて、トンバルバイ大統領は死亡し、フェリックス・マルーム将軍が政治の実権を握った為、リビア・チャド間の友好的な関係は長続きしなかった。クーデターの背景には、トンバルバイ大統領のリビアに対する宥和政策への反発もあったことから、カダフィはこれを自身の影響力に対する脅威と考え、チャド民族解放戦線(FROLINAT)への供給を再開することにした。1976年4月にはカダフィ支援によるマルーム暗殺未遂が発生、また同年、リビア軍はチャド民族解放戦線(FROLINAT)とともにチャド中心部に向けて侵攻を開始した。 チャド民族解放戦線(FROLINAT)より分裂した最強派閥・北部軍軍事司令評議会(英語版)(CCFAN)にとって、リビアの積極的な活動は懸念になり始めた。1976年10月、リビアからの支援問題で分裂、一部の者が離反し、反リビアのイッセン・ハブレが率いる北部軍(英語版)(FAN)を結成した。一方、カダフィとの同盟を受け入れる多数派はグクーニ・ウェディの指揮下にあった。この多数派はほどなくして人民軍(英語版)(FAP)と改称した。 その当時、カダフィからの支援は道義的に問題のない物資が中心で、武器類の供給はごく限定的であった。1977年2月になると、リビアはグクーニ率いる人民軍(FAP)にAK-47アサルトライフル数百丁、RPG (兵器)数十丁、81mmおよび82mmの迫撃砲、無反動砲を供給し、状況は変わり始めた。同年6月、これらの武器で武装した人民軍(FAP)は、ティベスティ(Tibesti)地方のバルダイ、ズアール(英語版)、ボルク(Borkou)地方のウニアンガ・ケビル(英語版)にあるチャド政府軍(FAT)の拠点を攻撃した。6月22日以来包囲されていたバルダイは7月4日に陥落、またチャド政府軍(FAT)はズアールからも撤退し、グクーニはティベスティ地方を完全に掌握した。チャド政府軍(FAT)は兵士300人を失い、多量の軍事物資が人民軍(FAP)側に渡った。一方、ウニアンガ・ケビルは6月20日に攻撃を受けるが、当地在留のフランス軍事顧問団により救われた。 リビアがチャドへの関与をより深めるための拠点としてアオゾウ地帯を利用していることが明らかになってきたため、マルームは、リビアによるアオゾウ地帯の占領問題について国際連合およびアフリカ統一機構に提起することにした。また、マルームは新たな同盟を結ぶ必要があると判断し、1977年9月、ハブレと正式な同盟関係締結を交渉し、「ハルツーム合意」に双方合意した。この合意は1978年1月22日に行われた基本綱領の署名までは秘匿され、その後、1978年8月29日にはハブレを首相とする国民統一政府(National Union Government)が発足した。マルームとハブレによるこの合意は、「カダフィが支配する過激なチャド」を危惧するスーダンとサウジアラビアが積極的に後押しした。両国とも、ハブレを敬虔なイスラム教徒、反植民地主義者と見ており、カダフィの計画を阻む唯一の好機と考えた。
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