アオゾウ地帯の占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 08:58 UTC 版)
「チャド・リビア紛争」の記事における「アオゾウ地帯の占領」の解説
リビアのチャドへの干渉は、チャド民族解放戦線(英語版)(FROLINAT)が、キリスト教徒のフランソワ・トンバルバイ大統領に対するゲリラ戦を、北方のボルク・エネディ・ティベスティ県(BET県)に展開していたチャド内戦(英語版)さなかの1968年に始まったとされる。リビア国王イドリース1世は、チャド-リビア国境(英語版)を挟んだ双方地域の長期間の強い結びつきにより、チャド民族解放戦線(FROLINAT)を支援せざるを得ないと考えていた。一方で、かつてチャドを植民地とし独立後もチャドを庇護するフランスとの関係を維持する為、イドリース1世のチャド民族解放戦線(FROLINAT)支援は、リビア領内での保護と、武器以外の物資の提供に限定された。 1969年9月1日のリビア革命にて国王イドリース1世は廃位となり、ムアンマル・アル=カダフィが実権を掌握すると、この状況は一変した。カダフィは、1935年にイタリア・フランス(当時のリビアとチャドの宗主国)間で署名されながらも未批准となった条約を引き合いに出し、チャド北部のアオゾウ地帯に対する主権を主張した。このような主張は、1954年にイドリース1世がアオゾウ地帯に侵攻(そしてフランス植民地軍(英語版)により撃退された)した際にも行われていた。 カダフィは当初、チャド民族解放戦線(FROLINAT)を警戒していたが、1970年までには「自身の役に立ちそうだ」と見るようになった。東側諸国、とりわけ東ドイツの支援の下、カダフィはチャド民族解放戦線(FROLINAT)に訓練を施し、武器と資金を与え武装させた。1971年8月27日、チャドのフランソワ・トンバルバイ大統領に対するクーデターが発生(失敗に終わる)、チャドは、クーデターを支援したとして、エジプトおよびリビアとの外交関係を断ち切った。加えて、リビアの反体制派勢力に対しチャドに拠点を置くように申し入れ、また「歴史的正当性」を理由にリビア領土となっているフェザーンの領有を主張し始めた。一方、カダフィは、9月17日にチャド民族解放戦線(FROLINAT)をチャドにおける唯一の正当な政府として正式に承認し、これに応酬した。10月には、チャド外相のババ・ハッサンは国連において、リビアの「領土拡張主義的な考え」を激しく非難した。 リビアに対するフランスの圧力とニジェールの大統領アマニ・ディオリの仲介により、1972年4月17日に両国は外交関係を回復した。その直後、トンバルバイはイスラエルと外交関係を断絶。また、11月28日にはアオゾウ地帯のリビアへの割譲について密約を交わしたと言われている。引き換えにカダフィは、チャドに4000万ポンドの提供を約束し、1972年12月に両国は友好条約を締結した。カダフィはチャド民族解放戦線(FROLINAT)への公式支援を撤回し、その指導者アバ・シディック(英語版)に申しつけ、本部をトリポリからアルジェに移転させた。1974年3月にはカダフィがチャドの首都ンジャメナを訪れ、また、同月にはチャドへの投資資金提供のための合同銀行が設立され、数年間は良好な関係が続いた。 1972年の条約締結から6カ月後、リビア軍はアオゾウ地帯に進駐。また、アオゾウ地帯のすぐ北側に、地対空ミサイルで守られた空軍基地を設置した。アオゾウ地帯を管轄する民政局がクフラ(英語版)に設置され、数千人におよぶアオゾウ地帯の住民にリビアの市民権が与えられた。以降、リビアの地図ではアオゾウ地帯をリビアの一部として表記するようになった。 リビアがアオゾウ地帯を手に入れた条件の詳細は一部不明のままであり、議論が続いている。トンバルバイ・カダフィ間の密約は、1988年にリビア大統領が「トンバルバイはリビアの主張を承認している」とされる書簡の写しを提示したことにより、初めて明るみに出た。これに対し、例えばベルナール・ランネといった学者達は、「正式な合意は、いかなる類のものも存在しない」、「トンバイルはこの占領に言及しない方が好都合と考えていた」と論じている。アオゾウ地帯問題が1993年に国際司法裁判所(ICJ)に提起された際には、リビアは密約の原本を提示することが出来なかった。
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