リビア関与の拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 08:58 UTC 版)
「チャド・リビア紛争」の記事における「リビア関与の拡大」の解説
カダフィは「マルーム・ハブレ合意はチャドにおける自身の影響力に対して深刻な脅威である」と認識し、チャドに対するリビアの関与度合いを高めることとなった。リビア地上部隊の積極的な参加を得ると、グクーニ率いる人民軍(FAP)は、1978年1月29日に初めて、政府軍のチャド北部最後の前哨基地ファヤ・ラルジョー、ファダ、ウニアンガ・ケビルに対し「イブラヒム・アバチャ攻撃(the Ibrahim Abatcha offensive)」を仕掛けた。攻撃は成功し、グクーニおよびリビア軍はボルク・エネディ・ティベスティ県(BET県)の支配権を手に入れた。 リビア軍・人民軍(FAP)連合とチャド政府軍との間の決定的な衝突は、BET県の県都ファヤ・ラルジョーで発生した。守備側のチャド政府軍5000人と、人民軍(FAP)軍2500人+リビア軍支援約4000人とで激しい戦闘が行われたのち、1978年2月18日、ファヤ・ラルジョーは陥落した。リビア軍は戦闘に直接携わらず、機甲部隊・砲兵部隊及び航空支援を担当し、この役割分担はこれ以降繰り返されることとなった。また、人民軍(FAP)の武装も、9K32ストレラ-2地対空ミサイルを誇示するなど、以前と比べ格段に強化されていた。 人民軍(FAP)は1977年から1978年にかけて約2500人を捕虜とし、その結果、チャド政府軍は少なくとも20%の兵員を失った。特に「国家・遊牧民警備隊(英語: National and Nomadic Guard)(GNN)」は、ファダ、ファヤ・ラルジョーの陥落で壊滅的な損害を被った。グクーニはこの勝利により、チャド民族解放戦線(FROLINAT)内での地位を高めることとなった。1978年3月にファヤ・ラルジョーにおいて、主要な反体制勢力を集めた会議がリビア主催で開催され、各派閥がチャド民族解放戦線(FROLINAT)として再結集、その事務局長にグクーニが指名された。 人民軍(FAP)・リビア軍の攻勢に対し、マルームは、1978年2月6日にリビアとの外交関係を断絶、リビアの関与に関して国際連合安全保障理事会に提起というかたちで応じた。リビアによるアオゾウ地帯の占領問題に関しても再度提起を行ったが、ファヤ・ラルジョー陥落後の1978年2月19日、停戦受け入れと提起撤回を余儀なくされた。一方、リビア側は、兵器の重要な供給元であったフランスからの圧力により、チャドへの進軍を停止させた。 1978年2月24日、ニジェール大統領セイニ・クンチェ、スーダン副大統領アブ・アルガシム・モハメド・イブラハム(Abu al-Gasim Mohamed Ibrahim)を仲介者とする国際和平会議がリビアのセブハで開かれ、チャドとリビアは外交関係を回復した。フランス、スーダン、ザイールからの強い圧力を受けて、1978年3月27日、マルームは、「チャド民族解放戦線(FROLINAT)の承認」「新たな停戦の合意」を旨とするベンガジ合意への署名を余儀なくされた。この合意では、合意事項を履行するためのリビア・ニジェール合同軍事委員会の創設が求められており、この委員会を通じて、リビアのチャド領内への介入は合法化されることとなった。また、合意事項にはリビアにとって重要な条件「チャド駐留フランス軍の完全撤収」も含まれていた。初めから履行が覚束ないこの合意は、カダフィにとっては、「子分」であるグクーニの立場を強固にするための戦略以上の何物でもなかった。また、この合意におけるマルームの譲歩を「指導者としての力量が足りない証である」と見たチャド南部の人々の間では、マルームの威信は大きく低下した。 1978年4月15日、停戦合意からほどなくして、リビアの駐留軍800人をファヤ・ラルジョーに残したまま、グクーニは同地を離れた。リビアの機甲部隊と航空戦力を後ろ盾に、グクーニ率いる反政府軍は、小規模なチャド政府軍(FAT)駐屯地を制圧し、ンジャメナへ向かった。 グクーニの進軍に対し、新たにチャドに投入されたフランス軍が立ちはだかった。グクーニ側からの最初の攻勢の後の1977年には既に、マルームはフランス軍のチャド再派兵を要請していたが、フランス大統領ヴァレリー・ジスカール・デスタンは、1978年フランス議会総選挙を控える中、再派兵には当初は消極的であった。また、フランスは、利益を生むリビアとの通商及び外交関係を損なうことを恐れていた。しかしながら、チャド情勢の急速な悪化をうけて、1978年2月20日にデスタン大統領は「オペレーション・タコー(フランス語: Opération Tacaud)」を決定、4月までにチャドへ2500人を派兵し首都ンジャメナの防衛を行うこととなった。 ンジャメナ北東430kmのアティが決戦の場となった。1978年5月19日、アティ駐屯の政府軍1500人に対し、火砲や現代兵器を装備したチャド民族解放戦線(FROLINAT)が攻撃を仕掛けた。機甲部隊にサポートされたチャド機動部隊、さらにはフランス外人部隊、フランス第3海兵歩兵連隊が支援に到着し、アティ駐屯の政府軍は救い出された。2日にわたる戦闘でチャド民族解放戦線(FROLINAT)は甚大な被害を出して撃退され、また1978年6月のジェッダでの戦闘においても政府軍側が勝利した。チャド民族解放戦線(FROLINAT)は兵士2000人を失い敗北、持ち込んでいた「最先端の装備品」を残したまま北へ逃走した。一連の戦闘で決定的だったのは、リビア空軍のパイロットが戦闘を拒否したため、フランス側が完全な制空権を確保できたことであった。
※この「リビア関与の拡大」の解説は、「チャド・リビア紛争」の解説の一部です。
「リビア関与の拡大」を含む「チャド・リビア紛争」の記事については、「チャド・リビア紛争」の概要を参照ください。
- リビア関与の拡大のページへのリンク