政治的暴力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 21:36 UTC 版)
「コルネリウ・コドレアヌ」の記事における「政治的暴力」の解説
11月、ブカレストの刑務所にいたコドレアヌは、連盟の中に青年組織を作ることを計画し、大天使ミカエル軍団と呼ぶことを目指していた。これは、刑務所の教会の壁に飾られていた正教会のイコンに敬意を表していると言われ、より具体的には、大天使の訪問を受けたというコドレアヌの報告に基づいていた。また、個人的な問題によりコドレアヌとクザの関係は冷え込んでいた。それは、クザの息子がコドレアヌの妹と関係を持ち彼女を妊娠させていたというものだった。スキャンダルはもみ消されたが、妹に隠し子がいるという事実は、家族を正教会の模範的な信者として見せたいコドレアヌにとって深い屈辱であり、彼は息子に妹と結婚するようクザに圧力をかけようとしたが失敗した。 ヤシに戻ると、コドレアヌは連盟の中で独自の忠誠のシステムを作り上げ、Frăția de Cruce(「十字架の兄弟団」)を創始した。1924年5月6日に、学生センターの建設に着手してヤシ周辺の田舎に集合した。この集会はルーマニア警察の県知事コンスタンチン・マンシウの命令によって当局によって暴力的に破壊された。コドレアヌと他の数人は、数日間殴られて拷問を受けた。政治活動から距離を置いた後、コドレアヌはマンシウに復讐し、10月24日にヤシ法廷ビル(コドレアヌの同志の1人が告訴した後、マンシウが告発に答えるために呼ばれた場所)で彼を暗殺し、他の警官数人に重傷を負わせた。鑑識の結果、マンシウは死の瞬間、殺人者と向き合っていなかったことが判明し、コドレアヌは、マンシウの以前の行動から、自分は正当防衛であると考えたことを示した。コドレアヌは銃を発射後すぐに自殺未遂をし、拘留中の裁判を待っている状態だった。 ヤシの警察は腐敗が蔓延していたため国民から不人気であり、多くの地元住民はマンシウの殺害をコドレアヌの英雄的行為と見なした。一方、ルーマニア議会では、農民党のポール・ブジョルがこの問題を取り上げ、政治的暴力と扇動を扱う法律の見直しを最初に提案し、与党である国民自由党の承認を得て、12月19日にマルツェスク法(提案者のマルツェスクは法務大臣に任命されていたためこの名がついた)を可決した。間接的ではあるが、その最も顕著な効果は、ルーマニア共産党の禁止であった。10月から11月にかけて、国会議員たちの議論は白熱し、クザのグループが殺人事件の道徳的責任者として取り上げられた。ペトレ・アンドレイは「クザ氏が狙い、コドレアヌが撃った」と述べ、これに対してクザは無実を主張する一方で、マンシウの残虐性が暴力的な報復の正当な理由であると理論化している。 コドレアヌはヤシから離れたトゥルヌ・セヴェリンで裁判を受けたが、当局は中立的な陪審員を見つけることができなかった。その結果、コドレアヌは無罪判決を受けた。歓喜の帰還とエレナ・イリノウとの派手な結婚式の後、コドレアヌはクザと2度目の衝突をし、フランスで休暇をとることで緊張を和らげることにした。
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