クーデターの頻発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 15:31 UTC 版)
「ホンジュラスの歴史」の記事における「クーデターの頻発」の解説
ホンジュラスでは1920年から1923年まで蜂起やクーデターの試みが合計17回行われ、米国の中米政情不安に対する憂慮が増大した。1922年8月、ホンジュラス、ニカラグア、エルサルバドルの大統領はフォンセカ湾に浮かぶ米国の防護巡洋艦タコマで会談した。3国の大統領は米国公使の監視のもと、自国の領土が隣国に対する革命の宣伝に使われないよう尽力することを約束、同年末にワシントンD.C.で中米諸国の会議を開催することを呼び掛けた。 ワシントンD.C.での会議は1923年2月に終結、補充協定11件を含む1923年の平和友好に関する一般条約(General Treaty of Peace and Amity of 1923)が採択された。この条約は1907年の条約と似ているが、中米司法裁判所を改革して、各国政府の裁判所への参加に対する影響力を弱めた。革命政府を承認しないよう求めた条項は拡大され、革命の指導者、その親族、並びに蜂起の前後6か月に権力の座についた人物(自由選挙で選出されて権力を掌握した場合を除く)も承認しないよう求められた。各国政府は隣国の革命運動に対する支援を自粛、既存の紛争を平和裏に解決するよう再び承諾した。 補充協定は農業の奨励から軍備制限までと幅広いトピックをカバーした。その1つは(批准されなかったが)コスタリカを除く中米諸国の間の自由貿易を定めた。軍備制限協定では各国軍の人数制限を定め(ホンジュラスは2,500人)、軍をより専業にするために(米国が後援して)外国の援助を求めるとした。 1923年10月に行われたホンジュラスの大統領選挙(英語版)とその後の政争と軍事紛争はこれらの条約の試金石となった。米国からの強い圧力を受けたロペス・グティエレスは当時のホンジュラスであまり見られない、自由に選挙活動を行える選挙を行った。長らく分裂していた保守派はホンジュラス国民党に統一、コルテス県知事のティブルシオ・カリアス・アンディーノ将軍を大統領候補に推した。 自由党は統一候補を出せず、元大統領ポリカルポ・ボニリャを支持する派閥とフアン・アンヘル・アリアス・ボキン(英語版)を支持する派閥とで分かれた。その結果、5割以上の多数票を獲得した候補はおらず、得票数ではカリアスが1位でボニリャが2位、アリアスが大差で3位となっている。ホンジュラス憲法はこのような場合では議会が決定を下すと定めたが、議会は定足数が足りず決定を下せなかった。 1924年1月、ロペス・グティエレスは再選挙が行われるまで在職する意向を述べたが、選挙日の公表は繰り返し拒否した。ユナイテッド・フルーツの支持を得たとされるカリアスは独自に大統領就任を宣言、武装衝突が勃発した。2月、米国は革命で権力を奪取した者は承認されないと警告、ロペス・グティエレス政府が選挙を行えなかったと批判して関係を断絶した。 情勢は瞬く間に悪化、2月28日にはラ・セイバで政府軍と反乱軍が会戦した。米国の防護巡洋艦デンバーが現れ、海兵隊が上陸しても略奪や放火を防げず、200万米ドル以上の損害が出た。戦闘では米国人1人を含む合計50人が死亡した。その後の数週間、米国海軍特別艦隊(United States Navy Special Service Squadron)がホンジュラス水域に集まり、米国の利益を守るために上陸した。海兵隊と海員の軍勢が内陸のテグシガルパに派遣され、米国公使館員を保護した。軍勢がテグシガルパに到着する直前、ロペス・グティエレスが死去、彼の内閣が代わって政務を執った。カリアスら反乱軍も郊外の大半を支配したが首都を奪取するには至らなかった。 戦闘終結を目指した米国政府はサムナー・ウェルズをアマパラ港に派遣した。ウェルズは1923年の条約に基づき承認される政府の樹立を目標として、4月23日から28日まで米軍の巡洋艦上で交渉にあたった。ビセンテ・トスタ(英語版)将軍を大統領とし、内閣は全ての政党が入閣、90日以内に憲政を回復するための制憲議会の開会が定められた。大統領選挙はできるだけ早く行うとし、トスタは自身は出馬しないと約束した。トスタは就任すると、約束の一部、特に多党派内閣に関する約束を反故にしようとしたが、米国代表からの巨大な圧力により結局講和協定を履行した。 1924年の選挙(英語版)の秩序を保つことは難しかった。トスタに公正な選挙を行うよう圧力をかけるべく、米国はホンジュラスへの禁輸を継続、バンコ・アトランティダ(Banco Atlántida)からの7万5千米ドルの借款要請を含む、政府による借款を全て禁じた。さらに、米国はエルサルバドル、グアテマラ、ニカラグアを説得して、1923年の条約における、革命の指導者を次期大統領として承認しない条項に加入させることに成功した。これらの圧力によりカリアスは立候補を辞退、国民党のグレゴリオ・フェレラ(スペイン語版)将軍の反乱も失敗に終わった。国民党はミゲル・パス・バラオナ(英語版)を大統領候補に指名したが、自由党は立候補者指名を拒否、パス・バラオナは12月28日の選挙でほぼ全ての票を得て勝利した。
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