東ローマ帝国における展開
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「皇帝教皇主義」の記事における「東ローマ帝国における展開」の解説
正教会においてコンスタンティヌス1世は「イサポストロス」(亜使徒)と呼ばれるが、東ローマ帝国の後継者達もこの称号を保持した。12世紀の詩人プトコプロドロモスが、皇帝マヌエル1世コムネノスを詩の中で「キリストに似たる人(クリストミメートス)」と呼んでいることからも、東ローマ帝国の教会における皇帝の位置づけがうかがえる。宮廷内の儀式等でも皇帝はキリストになぞらえられており、その権威・権力は強大なものであった。現在残されているモザイク画でも皇帝は光背を伴って描かれている。 歴代の皇帝は、戴冠式の際にコンスタンディヌーポリ総主教から副輔祭の教役に任ぜられ、これによって、一般信徒がみだりに入ることを許されない教会の至聖所へ立ち入ることを許された。これは「聖職者(神品)に任ぜられ」と記述されることがあるが、正教会における副輔祭は在俗の信徒も務める教衆であり、厳密な意味での聖職者(神品)ではない。また、副輔祭以下の教衆(堂役など)も至聖所に入る事は出来る。 ただ、皇帝は聖職者でないといっても、一般信徒とは異なる特別な地位を持っていた。たとえば皇帝は聖職者以外では唯一ココンスタンディヌーポリ総主教座教会・聖ソフィア大聖堂の内陣中央の扉から聖堂に出入りする特権を持っていた。正教会の教会法は総主教の任免に管轄地の政府の認可が必要であるとしていた。このため、皇帝はコンスタンディヌーポリ総主教その他の総主教の任免権を持ち、7世紀まではローマ教皇を捕縛することも可能だった(例えばローマ教皇マルティヌス1世は教義をめぐって対立した皇帝コンスタンス2世によって逮捕され、流刑に処された)し、教義に関する命令を発することも出来た。また皇帝には公会議を主宰し、大主教、府主教管区の設置をする権限があった。実際バシレイオス2世は1018年にブルガリア帝国を滅ぼして、東ローマ帝国に併合するとブルガリアの都オフリドの総主教を大主教へ降格したが、コンスタンディヌーポリ総主教からの独立・自治は認めている。 ただ、皇帝が実質的に教会に対する支配権を持っていても、総じて教会は敬意を持って扱われていた。535年、皇帝ユスティニアヌス1世の勅令では支配権(インペリウム)と宗教の祭司権(サチェルドーティウム)はあくまでも別のもので、互いに補完し合うものであるとされているし、9世紀のバシレイオス1世が発布した法律書『エパナゴーゲー(法律序説)』でも改めてそれが確認され、儀礼でも皇帝と総主教は互いに敬意を表しあうものとされていた。教義に関する事項でも総主教や各地の教会の代表者が集まる教会会議の承認を要したのであり、皇帝の命令だけで教義を決定できた訳ではない。また、前述の『エパナゴーゲー』では公会議や教会会議の決議に解釈を加えることが出来るのは総主教のみであると規定されている。なお、皇帝が幼い時に総主教が摂政として権力を行使した例も複数ある。 「補完しあう」と規定された皇帝と教会の関係も時に緊張感をはらんだものになることもあった。例をあげると8世紀の聖像破壊運動や帝国末期のパレオロゴス王朝時代に行われた東西教会合同決議などは皇帝が主導したが、聖職者達の強い抵抗によって覆されている。また11世紀のイサキオス1世コムネノスのように総主教を罷免したことから市民の反発を買って退位に追いこまれた皇帝もいる。ナジアンゾスのグレゴリオスがコンスタンディヌーポリ総主教に皇帝から直接指名された際には、教会法に反するという指摘があって退位した事例のように、皇帝も教会法の権威を配慮していたことも事実である。 東ローマ帝国における皇帝権力は、聖職者の叙任権も持たなかった神聖ローマ帝国の皇帝などから見れば遥かに強く、その専権事項である軍事・行政権を行使して教会に圧力を加えたり、総主教を更迭したり、フォティオスのような在俗の官僚や皇族を総主教に任命したりするなどして教会に影響力を行使していた。東ローマ帝国においては皇帝と教会共にどちらかに従属するようなことがなく、時に緊張をはらみながらも「キリスト教ローマ帝国」の支配層を形成していたというべきであろう。 時代が下って18世紀初頭、ロシアのピョートル1世はロシアの「西欧化」を志向し、貴族や聖職者たちの反対を押し切って近代化を推し進めようとした。東ローマ帝国皇帝の正当な後継者を自称した彼はモスクワを(コンスタンティノープルに次ぐ)「第三のローマ」とみなし、20年以上モスクワ総主教を空位にし続けることでロシア正教会を支配した。以降、ロシア正教会は実質上ロシアの統治システムの一部に組み込まれるかたちになった。
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