こうていきょうこうしゅぎ 【皇帝教皇主義】
皇帝教皇主義
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皇帝教皇主義(こうていきょうこうしゅぎ、カエサロパピスム Caesaropapism)とは、東ローマ帝国においては、帝権が教権に優越し、皇帝は教皇であったとして、国家が教会を強く管理していたとする説[1]。広義には東ローマ帝国に限らず、歴史上でキリスト教に対して超越した権威を持った世俗の権力者の統治体制を指して用いられることもある。「Caesaropapism」は皇帝(世俗の権威)を表す「Caesar」と教皇(教会の権威)を表す「Papa」を組み合わせて作られた言葉である。
- ^ a b c 『山川 世界史小辞典』230頁、山川出版社; 改訂新版 (2004/01)
- ^ a b c d e 根津 p15, 2008
- ^ 高橋(1980: 87-91)
- ^ 根津由喜夫『ビザンツ 幻影の世界帝国』(講談社選書メチエ)269頁参照
- ^ a b チャップマン p38, 2013
- ^ チャップマン p34, 2013
- ^ a b チャップマン p35, 2013
- ^ 離婚についての国内の決定に反対してローマ教皇に上訴することが禁じられた法。
- ^ チャップマン p36, 2013
- ^ 橋爪大三郎・大沢真幸『ふしぎなキリスト教』講談社現代新書、2011年5月20日、p256-257
- ^ a b c マックス・ウェーバー『経済と社会 支配の社会学 II』世良晃志郎訳、創文社、1962年4月30日、p531
- 1 皇帝教皇主義とは
- 2 皇帝教皇主義の概要
- 3 ヴェーバーの語法
皇帝教皇主義
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詳細は「皇帝教皇主義」および「ビザンティン・ハーモニー」を参照 カノッサの屈辱に象徴される中世西欧の強力な教皇権力に比して、東ローマ帝国のキリスト教会いわゆるビザンティン教会はいわば皇帝権力の内あるいは下の位置に甘んじていた。正教会のトップである総主教の交代さえ皇帝の意のままだった。このような関係を歴史学の用語で皇帝教皇主義と言い、東ローマ帝国はその典型である。 しかしこの通説には大きな語弊がある。確かに、東ローマ帝国では西ヨーロッパのように神聖ローマ帝国「皇帝」とローマ「教皇」が並立せず、皇帝が「地上における神の代理人」であり、コンスタンティノポリス総主教等の任免権を有していた。しかし、正教会において教義の最終決定権はあくまでも教会会議にある。聖像破壊運動を終結させた第七全地公会も、主催はエイレーネーによるものの、決定したのはあくまで公会議である。ローマ教皇のような一方的に教義を決定できる唯一の首位を占める存在といったシステムが正教会にそもそも無い以上、皇帝がローマ教皇のように振舞える道理は無かった。実際、9世紀の皇帝バシレイオス1世が発布した法律書『エパナゴゲー』では、国家と教会は統一体であるが、皇帝と総主教の権力は並立し、皇帝は臣下の物質的幸福を、総主教は精神の安寧を司り、両者は緊密に連携し合うもの、とされていた。また皇帝の教会に対する命令が、教会側の抵抗によって覆されるということもしばしばあった。[要出典]
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