皇帝暗殺とポグロム
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1881年3月13日、アレクサンドル2世がテロ組織「人民の意志」のポーランド人メンバーのイグナティー・グリネヴィツキーによって暗殺された。暗殺グループにはユダヤ人女性ハシャ・ヘルフマンもいた。『ノーヴォエ・ヴレーミャ』は「鉤鼻をした東洋風の男」が、『ヴィリニュス通信』はユダヤ人が犯人であると報道した。 皇帝暗殺後の翌4月、聖週間にウクライナのエリサヴェトグラード、キエフ、オデッサで大規模なポグロム(迫害)が発生し、1884年まで農民や出稼ぎ労働者によるポグロムが発生した。扇動者一団は鉄道で訪れ「ユダヤ人は皇帝を殺害した」というビラが街中に貼られ、暴行がなされていった。扇動者一団には、皇帝派の大公や将校が結成した聖従士団の一部が関わっていた。ポグロムについて作家シチェドリンやレスコフ、ゴーリキーはユダヤ人に同情した。他方で反ユダヤ主義が称賛されていた1880年代のロシアの左翼団体では、社会主義雑誌も一誌をのぞいてポグロムを好意的に語った。 続くアレクサンドル3世は1882年にユダヤ人の搾取からキリスト教徒を保護する条例を定め、1883年には「ユダヤ人法見直し委員会」を設置し、5年間の討議の末、委員会はユダヤ人とキリスト教徒との融和を目指し、反ユダヤ法の廃止を結論したが、空文となった。皇帝は「ユダヤ人がキリスト教徒から搾取し続ける限り、この憎悪が和らぐことはない」と述べた。1890年にモスクワでユダヤ人商店にヘブライ語看板の掲示を義務づけ、1891年には過越祭(ペサハ)に合わせてモスクワからほとんどのユダヤ人が追放された 最後のロシア皇帝ニコライ2世(在位1894 - 1917年)は1882年の条例よりもユダヤ定住地域をさらに狭めて、ロシア人農民がユダヤ人から搾取されないように田園地帯、キエフ、皇帝離宮のあるヤルタなどでのユダヤ人の居住を禁じた。定住地域外ではユダヤ人への検挙が行われ、ユダヤ人がロシア風を名乗る改名を禁止し、ユダヤ商店はユダヤであると分かるように明示することが義務づけられ、また1887年から学校でのユダヤ人定員が制限された。 1881年のポグロム以降、1891年までにアメリカへ移住したユダヤ人は13万5000人、1891年から1910年の間にはほぼ100万人のユダヤ人が米国、カナダ、ヨーロッパ、オーストラリア、南アフリカへ移住した。ロシアのポグロムから逃れた東欧ユダヤ人のうちドイツに留まったのは10万人以上で、7万人はパレスチナへ移住した。
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